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地名をあるく 92.御前町

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 「御前町」は秋葉山(一六〇メートル)の西麓に位置する町通りで、北は小高下谷川、南は頼久寺から美濃部坂を上がった場所までの間にある南北に通る町筋で、江戸時代の松山城下町時代には、家中屋敷町の一つで「御前丁」と表記されていました。


 当時の「御前丁」は、「水谷史」・「御家内之記」によると、元禄初年頃(一六八八〜一七〇四)には、長さ二三間で家数一五軒、小高下谷川側に家数一三軒と記録しています。石川総慶時代[正徳元年(一七一一)〜延享元年(一七四四)]には、一一軒及び一棟長屋二があったことが「松山城下絵図」・「松山家中屋敷覚」(市図書館)に記録されています。そして幕末には、知行五〇石〜一二〇石取の家中屋敷二三があった(「松山城下屋敷図」=市図書館)ことが分かります。


 この町の西側北の角にある新撰組隊士となった谷三十郎・万太郎、昌武の生家で直心流の指南役だったといわれる父、谷三治郎の家が描かれています。また、谷川通りには、順正女学校の創立者の一人で福西志計子(志計)の生家、福西
郡左衛門の家が、その隣には山田安五郎(方谷)の家と進昌一郎(鴻渓)の家が並んでいました(「昔夢一班」)。


 山田方谷は、藩校有終館の学頭でしたが、天保七年(一八三六)、この「御前丁」北側の小高下谷川沿いに屋敷を賜って、天保九年(一八三八)、自分の屋敷を使って家塾「牛麓舎」を開き、学頭となって漢学を教えています。塾生はいつも数十人いたといわれ、中でも進昌一郎や三島中洲、そして越後の河井継之助などがここで学んでいます。嘉永二年(一八四九)、方谷が元締役兼吟味役となって藩政改革に全力を挙げるまでの一三年間、学頭を務めた後、三島中洲が塾長となっています。


 町名の由来となっている御前神社は、以前小高下の泉が丘にあって、御前大明神といわれていました。元和七年(一六二一)初代藩主池田長幸が現在地に遷座したといわれ、幕末の天保一〇年(一八三九)の大火で焼失したので、弘化二年(一八四五)に板倉勝職が再建したといわれています。再び慶応二年(一八六六)、火災に遭ったため、現在の社殿は明治一四年(一八八一)に再建されたものです。仁治元年(一二四〇)、秋庭三郎重信が松山城に砦を築いて以来、松山城の鎮守として代々の城主の崇敬を受けた神社なのです。社伝には、「創建は宝亀六年(七七五)八月に吉備真備が唐から無事帰国できたことに対しての神恩に報い、徳に謝するために建立した」と伝えられています。


 「御前神社」は備前・備中・備後に多く分布しているといわれ、それは古代吉備の国の領域だったと考えられ、吉備の国の一宮だった、吉備津神社に祭られている丑寅御前( 外陣の四隅に御前諸神が祭られ、「吉備国征服の伝説」による怨念を晴らす神(「岡山県史」中世1)を勧請した神社で、「御前」は「ミサキ」とも読まれているのです。境内には水廻神社、御子神社など六つの末社が合祀されています。


 また、参道登り口には、鐘撞堂が建っています。慶安四年(一六五一)に藩主水谷勝隆が城下の士庶に十二時候を教えるため、矢掛の冶工、高草彦之丞に鋳造させ建立したといわれています。朝六ッ時、暮六ッ時などを定め、報時鐘を鳴らしていました(「昔夢一班」)。鐘撞堂の南隣(美濃部坂を登ったところ)には、一棟長屋があって、吉岡浅五郎・藤本又兵衛・木口庄助などの報時を担当していた武士の名が見られ(「松山城下屋敷図」)、誰でもできるものではなく、大変責任のある重職だったといわれています。


 このように御前神社が地名の由来となった「御前町」は、松山城下時代には重要な武家町だったことが分かるのです。
(文・松前俊洋さん)