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地名をあるく 85.落合町近似

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年12月1日更新

「近似」は、平成十四年、広報たかはし十月号の「地名さんぽ」で取り上げましたが、内容も浅く、不十分だったので再び書くことにしました。

 「近似」は、現在高梁市落合町の大字地名で、高梁川右岸に沿って北から鍛冶屋町、日名、奥、陰地、下組などの集落があります。

 「近似」という地名は、古く平安時代の「倭名類聚抄」という百科辞書に、備中国下道郡十五郷のうちの一つとして「近似(「知加乃里」と和訓が付けられている)」という郷名として出てきています。「近似郷」の位置は、現在の落合町近似や高倉町、松原町一帯が比定されています(「大日本地名辞書=吉田東吾」)。そして、中世、室町時代の応永元年(一三九四)の記録を文禄五年(一五九六)に写したものといわれる「吉備津宮惣解文」(吉備津神社文書=「岡山県古文書集」)の中に「河上郡六郷」として「近似郷 大麦小麦百石 山城秋平」と書かれていて、当時「近似郷」は山城秋平という人が代表となって、吉備津宮に納めているのです。

 近世になると「近似村」となり毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)から幕府領、元和三年(一六一七)松山藩領、元禄六年(一六九三)には再び幕府領、同八年には再び松山藩領となり明治を迎えています。松山藩領時代の「近似村」は、「正保郷帳」(正保二、三年頃)では二六五石余りとなっていて、枝村として大瀬村、肉谷村、肉谷のうち大瀬村をあげています。「備中誌」(嘉永年間=一八四八〜一八五三)によると、枝村に大瀬と竜王をあげ、石高五六四石余り、戸数一二〇軒、人数五三五人、東西一八町(一九六二メートル)、南北一里二〇町(約六キロメートル)と書いています。庄屋は平松松三郎(「備中村鑑」)、そして松山藩時代には陰地、日向山、八長山、大谷山、大砂山などに藩有林があって、山番が管理していた(「増補版高梁市史」)。天明三年(一七八五)に、山の楮は藩の御留楮に指定されていて、松山藩が和紙の原料をいかに大切にしていたかが分かるのです。

 幕末の嘉永二年(一八四九)には山田方谷(元締役兼吟味役)が藩政改革を行いましたが、その一環として鉄山の振興を図り、この地に鍛冶屋町をつくり鍛冶屋二十数戸を集め、農具・釘・稲扱ぎなどを生産させ利益を上げた(「増補版高梁市史」)といわれています。

 また、「近似」には神社仏閣も古い歴史を持つものが多く、地域の歴史の古さを知ることができるのです。鍛冶屋には城主の祈願所となった天台宗の蓮華寺が、陰地から城下町を見落とす場所には真言宗大福寺があります。また、玄賓僧都の木像が伝わる延徳二年(一四九〇)創立の松林寺があり、付近には玄賓谷があって、中世の土仏が出土する場所でもあります。

 下組には寛弘元年(一〇〇四)創建の大本八幡宮があって、花山の院(九六八〜一〇〇八) 御幸のとき、山城国石清水八幡の分霊を勧請したものと伝えられ近似、阿部、玉、下切、原田、川乱、春木、神原、田井、肉谷など各村の産土神(「備中誌」)といわれています。また、松山藩主の鎮守として保護され、山城国稲荷山に鎮座していた稲荷社の分霊を花山院御幸の際に勧請したと伝えられる、寛弘元年創立の稲荷神社があります。高瀬舟の船頭や城下町の商売繁盛の神として、また農業の神として毎年十二月の祭りには中国地方一円から多くの参拝客が訪れにぎわったのです。以前、稲荷前には城下町とをつなぐ渡し舟がありました。

 「近似」という地名は、平安時代からあった地名ですが、中世には「近則庄」とも書かれています。

 「近」は近いという意味で「似(則)」は傾斜地を意味(「字通」)することから考えると、「里に近い斜面のところ」を意味する地名なのかも知れません。現代の字面で歴史を考えるのは危険なのですが、「ツカノビ(塚伸)」の転化だという説(新人物往来社「日本地名語源辞典」)もありますが、とにかく難読地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)