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地名をあるく 75.古町

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回取り上げる「古町」は正式な行政地名ではなく、近世に発展した成羽川右岸に残る陣屋町に対して、対岸に残る中世以降の古い地域を「古町」と呼んでいます。

 「古町」は、現在成羽町成羽にあり、島木川が成羽川に合流する氾濫原の低地とその北の山麓に展開する場所で、北は羽山村、南は成羽川を隔てて旧下原村、東には旧福地村(現落合町福地)が、西には旧小泉村が位置していました。

 古くには下道郡成羽郷に属し(「和名抄」=承平年間成立)ていて「古町」一帯地域が中心だったといわれています。その後、中世には、成羽(葉)荘という荘園でした。永徳元年(一三八一)地頭職だった三村信濃守跡が足利義満によって山城(京都)の天竜寺に寄進されたもので(「日本荘園史」)、このとき国人領主三村氏は善養寺に立てこもって守護の渋川満頼と対立し、その後にも鶴首城にいた三村一族の抵抗が繰り返され、幕府と荘園をめぐって、しばしば対立しています。その後の長禄二年(一四五八)には、荘園が天竜寺へ返付されています。寛政六年(一四六五)備中守護細川勝久は「成葉庄」代官に被官の福地彦次郎を推挙しています(「前揚書」)。その後も水陸交通の要だったこともあって、この地は毛利、宇喜多、織田などの勢力の拮抗点だったのです。「成羽町史」によると「古町」一帯は、中世成羽荘の中心地域だったが、近世になると石高九〇六石余りで、その内八九六石余りが山崎家治領で、残り一〇石は源(玄)樹寺領だったのです。「正保郷帳」(一六四五~四六)では、成羽村として同じ石高で幕府領となっています。その後の万治元年(一六五八)には、旗本山崎領となって幕末を迎えています。

 「古町」は、三村家親が天文年間(一五三二~五五)に成羽町成羽(古町)の平地に居館(別名お茶屋・成羽城)を築いていました。東西約一九〇メートル、南北一七〇メートルの長方形で、南東(現在の桜丁あたり)に御門があって、この付近だけが突出した部分になっています。屋敷は中世豪族の館の特色をとどめていて、周囲に濠をめぐらせ、土塁で囲っていた居館だったことが分っています。それは東北(鬼門)の位置に土塁の一部の盛土が残り、金神様を祀っていて、これは当時の居館の外部に当たる位置で、その土塁の外にめぐらせていた周濠の跡といわれ、南北に低い水田があり、当時の堀(周濠)の遺構だろうといわれています。

 元和三年(一六一七)に因幡国(鳥取県)若狭から山崎家治がこの地へ入部してから寛永一五年(一六三八)肥後富岡へ転封するまで、居館として使用していました。その後家治の次男豊治は、対岸に御殿をつくり陣屋町を建設しましたが、「古町」にあった居館を別邸お茶屋として使用しています(「成羽町史」)。「古町」は吹屋往来、成羽往来、笠岡往来の交差する場所で備中北部からの農産物や鉄、銅などの集散地として栄えました。成羽川に沿って問屋が並び、高瀬舟の船運により河岸場が繁栄しました。現総門橋のたもとには川湊があって、下ってくる高瀬舟は、ここで継船制をとり下流への就航を禁止していました。成羽河岸には、宝暦六年(一七五六)頃には、高瀬舟二四艘船株があって船差役が支配しました(「成羽町史」=船株弐拾四艘相定帳)。

 佐原にある泰康山源樹寺(曹洞宗)は、慶長元年(一五九六)三村元親が父家親の菩提を弔うために開いたといわれる寺で火災で焼失したが、貞享五年(一六八八)に「古町」一帯に灌漑用水路を敷いたといわれる大商人の帯屋全久の寄進により本堂が再建されたと伝えられ、墓地には三村家親、元親の墓や帯屋全久の墓があります。また「古町」の東には、真言宗大覚寺派の放光山(常楽寺)西之坊があります。本尊は阿弥陀如来で脇侍に観音、勢至菩薩が祀られていて、寺伝によると天文二年(一五三三)三村家親が進出したときに本陣を置いたといわれ、後には旗本山崎氏の祈願所となり、護摩堂や本堂、格天井の枡絵は、江戸初期のもので珍しい。山本にある大元八幡宮は、天正一二年(一五八四)の「成羽八幡旧記」(「成羽町史」)に、三村家親が信濃国正八幡宮を勧請して社殿を造営したといわれ、成羽荘六ヵ村の大氏神とされていました。後の山崎氏も鎮守として崇拝したといわれ、帯屋全久が寄進した延宝(一六七三~八一)の石燈籠や江戸初期からの絵馬七点があります。「古町」は、山崎氏のつくった近世の陣屋町に対して、それ以前の三村時代から成羽川の左岸にできた古い陣屋町と高瀬舟によって、古くからの河岸の発展を見た町家を含めた地域を「古町」と呼んでいて、古い町と新しい町という時代を表す歴史地名の一つです。
(文・松前俊洋さん)