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地名をあるく 74.三沢

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「三沢」は川上町三沢で、近世の三沢村でした。明治二二年に手荘村となって、大字となりました。「三沢」は東には井原市美星町水名が、西には川上町地頭や川上町仁賀があり、南は井原市美星町黒忠や明治と境を接しています。国道三一三号線に沿って三沢川が北流して地頭で領家川や西谷川と合流しています。「三沢」は三沢川が吉備高原を浸食して流れる谷筋や枝状になった多短谷の谷状の窪地に集落が点在しています。わずかな平地は水田に利用され、斜面は畑地が多く、地形は複雑で明治頃の村誌に「土地高低一ナラズ四五歩ハ高燥 多クハ 天水受ノ地」と書かれています。この地域の地名にも、「~の上」「下(しも)」とか「日名」、「陰地」、「迫」、「久保」、「~谷」、「~平」、「マエ」、「ウシロ」、「~のハナ」、曽根」、「~の尻」などの小字地名が大変多いところで、谷地形の特色がよく分かる地形なのです。また、三沢は水利に恵まれない地域で、小字地名にも「汲川之元」「汲川の奥」「汲川の上」「汲川の尻」「ホリ川の下」「水汲場」などの地名がたくさん残っていて、古くから自然水に頼る生活があったことが分かります。

 「三沢」は歴史も古く、毛利の支配―小堀政次の支配(幕府領)―元和三年(一六一七)成羽藩山崎氏領―幕府領―万治元年(一六五八)旗本山崎氏領(のち成羽藩)となって明治を迎えています。近世の村高は「正保郷帳」(一六四五~四六)では二二五石余り、のちの「天保郷帳」(一八三四頃)では六四七石余りとなっています。万延元年(一八六〇)頃の「備中村鑑」では五三〇石となっています。

 山崎氏時代(一六五八~)には六四四石余りと増加し(「川上町史」)、明治になると六五三石余り(「旧高旧領取調帳」)となっていて、山崎氏時代に年貢の増大が図られたことが考えられるのです。

 「三沢」は、近世初期の村の面影を残していて、寛永二一年(一六四四)の「備中国川上郡之内三沢村家数人数牛馬改あらため帳」(「成羽町史史料編」)の史料に三沢村について農民の住宅建物の規模や人数、牛馬数持高などが各戸別に書かれています。例えば「一、高二百二拾五石五斗一升五合、三沢村 此人数二百五拾二人、此わけ、一 高拾六石七斗四升弐合 庄屋助左衛門㊞~(略)~家三間 八間 はい屋 弐間六間 馬屋 二間  五間 此人数拾六人、助左衛門年五拾八 女房四拾三…」などと詳しく村全戸について記録しています。終わりに「家数合八拾四間内三拾三御役目仕分、人数合弐百五拾弐人内、男百弐拾九人、女百弐拾三人…」「右之通少も相違無御座候 寛永廿壱年申九月日」三沢庄屋 助左衛門 五右衛門…(略)」この史料は江戸時代初期の三沢村の村落構造が分かる貴重な史料なのです。

 野田地区には城山(一九七・七メートル)と呼ばれる山に国吉城の支城だったといわれる野田城址があります。段の跡には武士が信仰した魔利支天が祭られています。「三沢」には、地蔵堂、荒神堂、大師堂、観音堂などの辻堂が各地に残り昔の人々の信仰の厚さを忍ばせてくれます。産土神は槙山八幡宮で拝殿の前には元文五年(一七四〇)銘の石灯籠があり、石鳥居は、宝暦三年(一七五三)建立となっていて、本殿は天保元年(一八三〇)に再建されたものです。

 淀地区には三沢村の庄屋だった美沢家の広大な屋敷跡があって立派な石垣が残っています。

 「三沢」の地名の由来については二つの説があります。一つは、「沢」という意味から、「沢」は「山間の水のあるところ」とか「谷」、「谷川」「渓谷」の意味を表わします。東日本では「谷」のことを「沢」といいます。「三沢」の地名は城平川、大見谷(三沢川)、日出谷の三つの谷(沢)からついた自然地名だという説と、二つめの説は、島根県美沢の庄より、美沢氏が移住したことからついた地名であるという二つの説があるのです。
(文・松前俊洋さん)