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地名をあるく 73.広瀬

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「広瀬」という地名は各地にありますが、今回取り上げるのは、高梁市松山にある「広瀬」で、伯備線の「備中広瀬駅」のある地域です。

 高梁川が湾曲して流れる場所の左岸に位置し、吉備高原の山々のV字谷が高梁川の浸食によりU字谷になりつつある地形の場所なのです。この広瀬地区は河内谷付近から下流の広瀬駅にかけて、高梁川の洪水によってたびたび被害を受けた場所で、特に昭和九年や四七年の洪水のときは備中広瀬駅付近が壊滅状態になった記録があります。高梁川の狭い段丘状の低い場所に集落が集まっているのです。

 「広瀬」は江戸時代のはじめ頃は松山東村(正徳三年(一七一三)頃から原東村)でしたが、元禄八年(一六九五)頃から松山東村と松山西村に再編されて松山東村に属し、幕末に至っています。「備中誌」によると「広瀬」東西二二町、南北一里(三・九キロ)一一町、枝村として岸之上・大久保・玉坂などとともに「広瀬」があがっています。そして明治二年(一八六九)に新たに高梁東村と改称し、明治八年(一八七五)には、高梁西村と合併して高梁村となり、のち明治一一年、松山村に改称するというように、大字が複雑に変わっています。

 「広瀬」という地名は古く戦国時代から備中国上方郡として見えていて、正確な史料ではないが天正四年頃の成立といわれる「備中兵乱記」に「山田鬼身城(現総社市)が没落の事」の記述の中に城主三村実親自刃の形見として「広瀬引合と云う紙(広瀬の柳井家で漉いていた高級紙)を取り寄せ、一重つつ賦り重子」とあり、広瀬の檀紙のことが書かれています。また「同書松山軍の事」の中に『天正三年(一五七五)三月一日毛利方が成羽に陣を移し、これと対した松山勢は「広瀬の陣屋」(広瀬固屋=小屋)に馳せ出たが、半月後、毛利の攻撃に堪えられず三村軍は松山城へ引き退いた』とあり、「広瀬」の地名が出ています。

 「広瀬」の柳井家でつくっていた大高檀紙(日本紙の一種で厚手でちりめんのようなしわがある)・釜敷紙は、中世室町時代から有名で、近世には松山藩主の献上品の筆頭だったのです。この柳井家は室町時代周防国の柳井(現柳井市)から来て紙漉に従事したといわれ、天正一六年(一五八八)には紙屋平左衛門(柳井)が毛利輝元の家人として召抱えられています。

 「禁裏(天皇)様将軍様御用紙漉上候ニ付広瀬村被下置候由・・・・」「備中紙屋柳井平左衛門の事・家人に召置候、彼者抱所為給地可遣由、可申付也」「天正一六年(一五八八)一二月輝元公御書判」などと記録が残っていて(「柳井家由緒書」=「県古文書集」)とあり、御用紙を漉く特権業者として全国に名をとどろかせ幕末に至っています。

 「広瀬」には真言宗善通寺派大嶽山法林坊という古刹があります。本尊は聖観音で境内には立派に陽刻された六地蔵が立っています。備中巡礼第二番札所で文政十一年(一八二八) 戌子三月とあり、常夜灯には嘉栄元年(一八四八)と刻まれています。裏山に、四国八十八カ所と西国三十三所を模した石仏があります。

 「広瀬」の産土神で、延暦三年(七八四)創立と伝えられる八幡宮があります。立派な鳥居には天保十二年(一八四一)辛丑八月吉日の文字が目につきます。常夜灯には柳井勘左エ門の名が残っていて、拝殿の水引虹梁の彫刻はみごとで、また本殿の向拝は唐破風でかなり手の込んだ神社です。そのほか水谷勝宗の建立といわれる大歳大明神、森大明神があります。

 「広瀬」は近世から松山往来に沿う場所であったことと、対岸に高瀬舟の川湊(玉川町舟津)があったこと、そして大高檀紙で有名な柳井家があったことなどで古くから栄えた地域だったのです。

 「広瀬」の地名のように「瀬」のつく地名は、海や川沿いには多く見られます。「瀬」は「川や海の浅いところ」とか「急流・早瀬」の場所の地名としてよく使われています。

 古くから高梁川を上下する高瀬舟の船頭たちによって、浅瀬や急流に名称をつけたところが多く残っているのです。

 即ち瀬は「淵」とは対称的な場所なのです。高梁川が湾曲して瀬が広がったところについた、川の地形を表す自然地名なのです。
(文・松前俊洋さん)