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地名をあるく 66.黒鳥

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回の備中町「黒鳥」を理解していただくためには、まず一番にこの付近の地形を知っていただくことだと思います。備中町は平坦面が少なく、約七〇%が隆起準平原といわれる、標高四〇〇メートル~五〇〇メートルの起伏の緩やかな吉備高原上に生活の中心があります。したがって、深くV字谷に削り込まれた成羽川の渓谷地形の底の小さな河成段丘上の道路に沿ってできた黒鳥や長谷など街村状の地区が成羽川沿いに点在しているのです。高原上の野呂(地形)には平坦面のクボに水田が開け、起伏の緩やかな斜面は畑に利用されていて、平地に乏しい渓谷の低地に位置する黒鳥などとは対称的で高度差が二~三〇〇メートル有り、交通は高原から流れ出る小さな谷に沿って道が発達し、上下の交通路は難所が多く急峻な坂道を人や牛馬で物資を運んでいました。高原の物資は谷沿いの道を下り、成羽川沿いの黒鳥や長谷の河岸場に集められ、市場が発達しました。

 中世から黒鳥や長谷は、布賀村の一部でした。江戸時代の「正保郷帳」( 正保二〇三年頃=一六四五~四六)では布賀村四八〇石余りの枝村となっていました。布賀は中世河上郡穴斗(門)郷(「布賀八幡宮棟札」=「県古文書集」)と書かれ平川氏の勢力が強かった地域でした。その後毛利の支配から幕府領、そして元和三年(一六一七)松山藩領、同四年成羽藩領、その後再び松山藩領、寛永一八年(一六四一)幕府領となり、元禄六年(一六九三)松山藩主水谷勝美の弟勝時が三〇〇〇石を与えられ、布賀に陣屋を構え、水谷氏領として、高原上の布賀が政治の中心となりました。弘化から嘉永年間(一八四四~五四)頃になって、成羽川の高瀬舟による河川交通がさかんになると、便宜を考えて、安政三年(一八五八)に布賀陣屋を下の黒鳥に移したため、河岸の「黒鳥」が発展し、市場町として栄えるようになりました。黒鳥の町には当時の面影はありませんが、塩田瓦を葺いた商家が残り、舟稼ぎで栄えた商家なども見られ、町通りには川湊のあった川岸への小さな路地も残っていて、黒鳥の町の昔を彷彿させてくれます。町の上(地域局への入り口付近から)は「上の市場」それより下は「下の市場」といわれ、高原の牛や農産物が売買され、牛市が賑わい、高原の木炭、米、コンニャク、煙草が牛馬によって運び出され、問屋によって高瀬舟で下流の玉島や笠岡方面へ積出されていました。下の市場にある原田秀生さん宅は昭和の初め迄紺屋をしていたといわれます。大正・昭和の頃迄賑わっていた町の様子を西家昭二さんは資料を交えて語ってくれました。『「黒鳥」の家の多くは、“布寄・長地や布賀などの野呂方から下りて商いをして黒鳥に住みついた家が多かった”とか、“当時の家の屋号も残っている”とか、明治の時代から高原の牛が集まり牛市が立ち、市の日には大変賑わって、店が繁盛していた。また、高原の煙草も集荷され仲買人や問屋もいて大変栄えた市場町だった』などと懐かしそうに話してくれました。現在の黒鳥の町のかたちは明治二六年(一八九三)の成羽川の大洪水の時、町の大半が被害にあった後、町が変わったといわれ、当時は成羽川が南の山すそ寄りに折れ曲がって流れていたらしく、現在の富家小学校付近は以前の川床だったのです。「黒鳥」は吉備高原上(野呂地域)の谷口集落として、また、市場集落として、河岸場として古くから成羽川の水運に依存して発展してきた町だったのです。今でも黒鳥陣屋のあった鶴見邸や平川氏一族だった平川邸付近に野呂と河岸場を結ぶ奥ノ谷沿いの道の出口があって、古くから牛馬に荷を背負わせて往き来した重要な道路の出口で、谷口集落としての「黒鳥」の歴史を語る場所として大切な場所として残っています。

 「黒鳥」の地名の由来はよくわかっていませんが「黒」は地名によく使われています。「くろ」は「クラ」を表わし、崩壊地形とか崖を意味し、崩れやすい石の多い地を表わすことが多いのです。また「グロ」という意味にも用いられ、「物の集まっているところ」などを言うこともあります。「クロ」は「クル」(転)で川の曲流点を示すこともあります。「トリ」(鳥・酉・取)は切り取られたような地形の意味で、やはり崩壊地形、浸食地形を意味することが多いのです。「黒鳥」とは自然地名に由来するのかも知れません。
(文・松前俊洋さん)