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地名をあるく 64.同心丁

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「同心丁」は江戸時代、十八世紀の中頃から明治の初めにかけて、松山城下の家中屋敷町の一つとして取り立てられていた町名(丁名)で、今では町の面影も消えて、山陽オカムラの工場になっている場所にあった消えた町名なのです。

 松山城下町時代の「同心丁」は、道を隔てて西に荒神丁、甲賀丁、八幡丁が、北には間之町、柿木丁、向丁があって、下家中地に取り立てられた武家町でした。「松山城下絵図写」や「松山城下屋敷図」(市図書館)によると中間之町から南に約一町(約一〇九メートル)ほどの小路に沿って二列に同心(下級武士の身分呼称で与力の下で警衛にあたった)組長屋があったことがわかります。

 この長屋は石川総慶時代(正徳元年〜延享元年=一七一一〜四四)に、甲賀丁に一棟長屋七があげられていますが、御先手(町を巡回し、火付や盗賊改めなどの警備の役をした武士)長屋であったらしく、のちに間之町になっています。

 もともとは、柿木丁にあった同心組長屋を移したものといわれる長屋が並んでいたのです。

 水谷時代には、間之町や「同心丁」も取り立てられておらず、また延享元年(一七四四)の「松山六か町、六十四差出帳」にも町名が見えていません。間之町が甲賀丁から別れて取り立てられたのは板倉氏時代になってからだといわれ、はっきりした時期はよくわかっていません。間之町の南に続いてあった「同心丁」もその頃できたものと思われ、「増補版高梁市史」によると明和五年(一七六八)一月に「同心丁」から出火した火事で、同心組長屋や柿木丁の御組(足軽、与力、旗組など)長屋、荒神丁などを全焼したことがわかっています。

 幕末の様子が書かれている「昔夢一班」に次のように書かれています。「同心は奉行役の支配にて大組足軽より選抜せらる小頭(取り方や火消し部隊におかれた役)両人、目付両人、同心町とて一廓をなして長屋を給はる、罪人召捕、下吟味を為す、手付(金でやとう)目あかしといふものを使役して犯人に注意す、奉行役出張の節は何れへも随行す、君公(藩主)御出のときは御先払を勤むる、弓鉄砲及柔術を専ら学ぶ、冬は畝織木綿、夏は麻紺色にて背に花菱の紋付たる羽織を着用し無袴にて竹杖を突き、赤総十手を帯す」とあり、当時の同心の様子がよくわかるのです。

 「同心丁」は、板倉勝澄が伊勢亀山から入国して間之町のすぐ南側の位置に下級武士の居住地として、また城下町の南東を固めるため配置した町で幕末の嘉永〜安政(一八四八〜六〇)頃には、東側の長屋に同心六人、西側に八人(「昔夢一班」)がいました。「増補版高梁市史」によると、慶応年間(一八六五〜六八)頃には世帯数十八が挙げられています。また、「昔夢一班」に「徒刑所と云う懲戒場、同心町にあり、賭博を為すものまたは親不孝心得方不宜ものを懲戒する處にて、薄鬢に剃落し眉を剃、辨柄染の袖なし、背に徒の字を大書したるものを着せ、夫役(労働)に召遣ふ也、今の懲役人なり」と書いています。

 間之町から天保一〇年(一八三九)三月に出火して城下町最大の大火となって、間之町付近は全焼し武家屋敷、寺院、そして町屋三四〇が類焼した(「松山御城主暦代記」)といわれ、その後間之町は復興して、東間之町、中間之町、西間之町に別れ、その中間之町のすぐ南に続く町が同心組の長屋のあった「同心丁」だったのです。今では、この歴史地名も中間之町や東間之町から続く路地の一部のみが残っていて、わずかに面影を留めるだけになっているのです。
(文・松前俊洋さん)