ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 広報たかはし > 地名をあるく 62.東町

地名をあるく 62.東町

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「東町」は今の高梁市東町で、はなみずき通りを隔てて、北には鍛冶町、そして南には栄町、東には松原通や間之町が、西には南町があります。現在の東町と南の栄町の境から町筋の幅が違っていて、道幅の広い栄町は城下町時代の東町より以後に町筋ができた近代の町であることが分かります。

 東町の歴史は江戸時代にさかのぼり、松山藩主水谷二代勝宗が寛文一〇年(一六七〇)に南町を取り立て、その後貞享二年(一六八五)にこの東町を町人の町として取り立てて成立した町でした。この頃の松山城下は活気があふれ、高瀬舟による河川交通も盛んになり、河岸が発達し問屋などが栄えて、松山城下町は五・六万石の大名の城下町として完成した時代でした。

 「松山御城主歴代記」(市図書館)の勝宗の条に「御城下町数二十二丁。…南町寛文十年出来、南町是は水谷様御代より御除地に仰せ付けられ候。貞享三年東町出来。」(「差出帳」には貞享二年とある)と書かれていて、松山城下町で、南町までの「五町の町」には地子(領主から賦課される税)免除という恩典があったが、六番目に出来た東町は地子免除の恩典がなく、その上、城下町の各種の催しにも参加していませんでした。また延享元年(一七四四)の「松山六カ町差出帳」(市図書館)によると東町は鍛冶町の南の牢屋小路(現はなみずき通り)を隔てて続き、町の長さ一丁三六間余りで幅三間(約五メートル四〇)のもっとも短い町筋でした。東町の南端には東町辻番所がありました。「増補版高梁市史」によると、当時本町一七一世帯、下町二六一世帯、南町二七八世帯、新町一五六世帯、鍛冶町二三〇世帯、東町は六三世帯が軒を連ねた町だったのです。『水谷史「御家内之記」』によると町の長さ一丁二十間、家数三十八軒と書かれ、また延享元年の「差出帳」に人数一八八、うち男九二・女九六、東に通る小路(横丁)が一つありと書いていて、現在もこの路地は残っています。東町町年寄は原村庄屋が兼ね、役付五俵で十郎兵衛の名が見えていて、払米、大豆、鰯口銭などの取り立てをしていた(「増補版高梁市史」)。

 東町には銀札発行の札受をしたり質屋、酒造などを営んでいた「下の大坂屋」平松益造の家が西の弓之丁から南町を経て東町に至る大きな屋敷をもっていました。屋敷の中庭には位牌堂のある淨真寺まであった(「昔夢一班」)といわれています。

 畝数五反六畝七歩のうち三反三畝一一歩は原西村(松山西村)、二反二畝一六歩は原東村分となっていた(「松山御城歴代記」)ようで町の南や東側には当時畑も多かったのです。

 今では近世城下町時代の家並は残っていませんが、町の南の端の栄町との境付近には出雲から勧請した「夜を守る神」の日御碕神社が祀られ、境内には以前松山村への農道にあった文久二年(一八六二)銘の地神塔や、天明三年(一七八三)癸卯の文字のある石燈籠、そして文政十年(一八二七)丁亥年八月吉日の大きな常夜燈が残っていて往時をしのばせてくれています。昭和の中頃まではこの町に保健所もありました。

 「東町」という町名は江戸時代の松山城下町六町の一つで、南町に続いて取り立てられ、南町の東側に位置したので付けられた町名なのです。東方を示す地名で全国の城下町にはこの町名は沢山見られます。成羽の城下町(陣屋町)にも「東町」があります。
(文・松前俊洋さん)