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地名をあるく 59.大竹

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「大竹」は、川上町「上大竹」「下大竹」に分かれています。江戸初期には「大竹村」でした。標高三〇〇〜四五〇メートルの吉備高原上と、その谷筋に集落が点在している地域で、気温も高原上と谷底では異なり、小起伏の多い地形の特色を表す日名(日向)、陰地とか、クボ、サコ、ウネ(畝)などの地名が多く見られるのです。 穿入曲流 (はめせんにゅうきょくりゅう込み蛇行)となって東に向かって流れる領家川に沿って県道が走り、その道沿いに正寺などの集落があります。領家川には高原上から流れ出る多くの谷(川)が合流しています。

 高原の代表的な村、上大竹の神野は以前保屋とも書かれていたようで、「神野台」と呼ばれる石灰岩の台地で、カルスト地形が発達し、ドリーネ(すり鉢状の溶食凹地)といわれる表流水が地下水系へ吸い込まれている場所が見られ、隣り合うドリーネが連合する大きなウバーレになった地形も見られるのです。赤い残積土の中に、石灰岩の岩塔群が羊の群れのようになって分布するカレンフェルドなどカルスト大地らしい場所で、地表水が乏しい畑作中心の地域となっています。

 仁賀と大竹の境付近の県道沿いには天然記念物に指定されている沢柳の滝があります。この滝は地形学や地質学の話題となっている場所で、水は上流の神野付近の「大賀台」や「高山台」に源を発していて、石灰岩を溶食して地下に流れ込んで伏流水となり、地下の「成羽層」といわれる硬い中生代の砂岩や泥岩に当たると、その硬い層に沿って地表に流れ出て三段の滝となっているもので、硬さの異なる岩盤が古生代の石灰岩層と逆転して「押し被せ構造(デッケン)」になったところで、全国でも珍しい場所なのです。

 また、上大竹の相坪川上流には藍坪といわれる県指定の天然記念物となっている滝坪があります。これも地質学上貴重なもので、滝坪の跡が段々に四個並んで残っていて、新世代第四紀洪積世頃の砂れき層によって被われていた古い川の滝坪の跡が再び現れているもので、川の侵食作用によって滝坪が後退して形成されたものだといわれています。江戸時代には、地域の人々がここで雨乞いをしていたと伝えられ、また、猿が藍染のかめ(滝坪)で染物をしていたという伝説が残っている場所なのです。

 「大竹村」の歴史は、幕府領小堀氏の支配から成羽藩山崎氏の支配、松山藩池田氏の在藩所領、成羽藩水谷勝隆の支配、幕府領、成羽旗本山崎氏(のち成羽藩)領となって幕末を迎えています。石高は「正保郷帳(一六四五・六年頃)」では大竹村六四六石余り、一八三四年頃の「天保郷帳」では一二三〇石余りとかなり増加しています。

 「大竹村」が下大竹村・上大竹村に分かれたのは、「川上町史」によると「正保年間(一六四四〜四八)に宇根方組・谷方組に分かれ、万治年間(一六五八〜一六六一)に各々、下大竹・上大竹と命名した」と書かれています。明和三年(一七六六)の「山崎文書」の「御領分村々田畑高之覚」に下大竹村四六六石余・上大竹村七六四石余と記録しています。

 上大竹神野には花笠を被っての渡り拍子が行われる産土神、榊山八幡宮(ご神体は石)が鎮座しています。また、下大竹には清実八幡宮が保屋の榊山八幡の分霊を勧請して祀られています。寺院には下大竹に曹洞宗松岳寺があります。「大竹」では今でも各集落ごとに荒神社や大師堂が残されていて、地神塔や幕末〜明治にかけて建てられた牛馬供養を兼ねた道しるべが各地に残っていて、地域の信仰の歴史を感じさせてくれます。

 「大竹」という地名の由来ははっきりしませんが、大竹の「竹」(たき)は山腹の急傾斜地とか絶壁・崖など高低の激しい険しい地形のところによく用いられています。岳、丈などもそうです。また、たぎるから水が激しく流れるという意味もあることから「たき」から変化したとも考えられるのです。西の「大岳山」(五五〇メートル)も同じような意味の地名で、崩壊地形や浸食地形を表現する「竹」(タケ・ダケ)なのです。
(文・松前俊洋さん)