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地名をあるく 54.穴門山

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「穴門山」は、山名とか字地名ではなく川上町高山市長田山の宮山にある「穴門山神社」のことで、川上町の西の端、吉備高原上にある高山市から権現谷の参道を約二キロ北へ下った谷筋に穴門山神社が鎮座しています。

 参道入口の高山市は川上町と井原市芳井町の境が入り組んでいて、成羽、笠岡、備後東城を結ぶ往来の中継地点として市が立ち、物資の集散地として、また、穴門山神社の門前町として栄えた町で街村となっています。そして、江戸時代から牛市も開かれた博労座も残っています。

 高山市の参道入口の石鳥居をくぐると、石灰岩地形を物語るドリーネの窪、そして急な権現谷を下ると谷底に穴門山神社の唐破風の本門や、隋神門が懸崖の上に見えます。登っていくと、彫刻に忍冬唐草文様などが彩色され装飾性豊かな本殿や拝殿が見事で、本殿は単層・三間社流造となっています。

 現在の本殿は、寛永一四年(一六三七)、松山藩主池田長常によって再建されたと棟礼にあって(「川上町史」)、県重要文化財となっています。また、宝暦元年(一七五一)、水谷出雲守勝英が寄進した石灯籠も残っています。神社の裏には鍾乳洞があって清水が流れ、古くには鍾乳洞の信仰もあったであろうことが考えられるのです。 延喜式内社(延長五年〈九二七〉にできた延喜式という法典にある宮)で、旧県社でした。

 神社の歴史は明らかでない点も多く、近くにあった神宮寺という寺が宮を運営していたこともあったといわれています。

 中世室町時代に「穴戸郷」が「吉備津宮惣解文」(「県古文書集」)に河上郡六郷の一つとして見えていたり「吉備津宮流鏑馬料」の史料にも「穴斗」の地名が出ていて、現・備中町平川、富家から川上町北西部一帯が穴戸郷だったといわれています。「穴門山神社」の名称は中世以前から地域名にも使われていたと考えられます。「穴門」は鍾乳洞を意味していて、「門」は場所を示し、「〜の所」という意味もあって、「出入口」、「谷間の険しいところ」を意味し、「穴」を語源にした地名から付けられた「穴門山」なのです。
(文・松前俊洋さん)