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地名をあるく 52.頼久寺町

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回は、高梁市「頼久寺町」です。「頼久寺町」はJR伯備線に沿う町で東は伊賀町、西は中之町、南は紺屋川を隔てて、向町や寺町が、北には美濃部坂から御前町・石火矢町があります。

 「頼久寺町」は江戸時代は、「頼久寺丁」と書かれ池田氏の頃(元和三年=一六一七〜寛永一八年=一六四一)にはすでに松山城下の家中屋敷町の一つでした。頼久寺は歴史のある寺院で、草創当時には、天忠寺、または大林寺と号していたと伝えられ、荒廃していたのを足利尊氏と義弟の直義が後醍醐天皇らの冥福を祈るため暦応元年(一三三八)頃から国ごとに一寺一塔の建立を進め、寺を安国寺と称し南北朝の頃に全国につくらせました。その時の備中国安国寺だったともいわれています。その後、松山城主上野備前守頼久が永正年中(一五〇四〜二一)に伽藍を再興して寺領を与え、寺号の天忠から山号を天柱山とし、子の頼氏が父の名を寺名に加えて、安国頼久寺としたと伝えられています。その後、天正三年(一五七五)の備中兵乱のとき戦火で伽藍や什物を焼失しましたが、乱の後に毛利輝元の命によって天野元明・同元信が復興しました。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いの後、奉行として小堀正次(新助)、政一(作助)父子が松山に来ましたが、兵の乱後で松山城が荒廃していて使用できなかったため、政務のための居館として頼久寺で執務をしています。

 頼久寺丁は、池田氏の頃には上級武士の屋敷町でしたが水谷氏の頃には中堅家臣の家中屋敷となっていたらしく、「水谷史」(「御家内之記」)によると、元禄(一六八八〜一七〇四)の初めには「長さ一丁二十八間、家数八軒、寺一ヶ所」とあり、百石が二軒、五百石一軒、百五十石二軒、三百五十石一軒、四百石一軒の武士があげられています。また、延享元年(一七四四)には六(「増補版高梁市史」)、幕末の嘉永二・三年(一八四九〜五〇)頃から安政初年(一八五四)頃には、家中屋敷六軒(「昔夢一班」・「前掲書」)となっています。町は、幕末の天保三年(一八三二)と一〇年(一八三九)の大火で全焼し、一〇年の大火では頼久寺の伽藍も全焼しています。

 町名になっている頼久寺は、臨済宗永源寺派、山号は天柱山、本尊は聖観音、開山は永源寺派の祖・寂室元光、そして元光の高弟の霊仲禅英の開基と伝えられています。小堀遠州作庭と伝えられる禅院式枯山水蓬莱庭園は愛宕山を借景として、サツキの刈り込みや三尊の石組を配置した鶴島、亀島、背後にサツキの大刈込みを配して大海原を表現するという、まさに禅院にふさわしい枯淡幽玄の境地の美を表す名庭で知られています。

 本堂裏には、宇喜多によって暗殺された三村家親と備中兵乱で自害した子の元親の墓碑があります。また、寺宝には国指定重文となっている鎌倉時代の貞治三年(一三六六)に描かれた絹本着色釈迦三尊像があります。

 ほかに明治二九年(一八九六)県下最初の女学校、私立順正女学校(のち高等女学校)の校舎として建てられた県指定史跡の順正寮跡があります。

 幕末頃の絵図(「松山城下絵図」)によると頼久寺山門の下は竹薮だったらしく、大正末期になって伯備線敷設のため、家屋が移転し、昭和になると竹薮もなくなり「頼久寺町」は様変わりして伯備線沿いの町となったのです。
(文・松前俊洋さん)