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地名をあるく 48.領家

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「領家」は川上町の大字地名の一つで、成羽川とその支流である領家川が合流する地点から領家川に沿って南にさかのぼった両岸一帯に当たる地域で、領家川が成羽川に合流する対岸には吉木、合流する付近には一の谷、西川合、東町、その南に郷、臘数(拙稿「地名をあるく」十一臘数・参照) 尾頃、乗元、古川、八幡、朝日などの集落が領家川の段丘面や山間のくぼ、谷の斜面に点在しています。南には地頭(拙稿「地名をあるく」十九地頭・参照)や三沢、西には七地があります。

 領家川と成羽川が合流する付近は古くから街道の分岐点として、また出口集落として市もたち栄えていた川合や東町があります。対岸の吉木は以前、西川合と渡し舟で結ばれていて船頭もいたところでした。今も成羽―田原―坂本の吉岡鉱山を結ぶ馬トロ運送の「トロッコ道」が残っています。西川合には高瀬舟の船着場があって道筋には「大土御祖神」と自然石に刻まれた珍しい地神塔と以前港にあったといわれる文政五年(一八二二)の金毘羅宮常夜灯が立っていて川湊の名残りをとどめています。

 「領家」は南の「地頭」と同じく手荘という中世の荘園にかかわる地名なのですが、当時の詳しいことは分かりませんが、室町時代中期以降は京都相国寺(臨済宗)の荘園だったことが史料から分かっています「蔭涼軒日録・長享元年(一四八七)十月二十六日条」=「川上町史」)。いつの時か、手荘という荘園を支配していた領主(本所・本家・領家)のところへ鎌倉時代になって御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)が地頭として進出してくると、領家側と地頭側の領地争いが起こり、土地(下地)をしたじ領家方と地頭方に分割(下地中分)し、決着を図る方法が行われました。「領家」の地名はその名残りの地名で、すなわち歴史地名なのです。現在、当時地域の中心だったと思われる乗元地区には公文(九門・久門)とい
う土地名が見られ、南向きの斜面には公文屋敷といわれる場所や古墳(六・七世紀の円墳)があって荘園時代の荘官が帳簿の記帳管理する政庁のあったところを思わせる地名として残っているのです。

 近世は領家村でした「領家村岡吉八幡宮御当文之事」(「武田顕吾家蔵文書」=「川上町史」)として「弘治三年(一五五七)領家村 とくせん名」などと書かれ「天正六年(一五七八)神主四郎太夫」と記録が見えています。文書に出ている岡吉八幡宮は現在の惣社八幡宮のことで、中世には領家川の近くの岡吉に祭られ、領家方の産土神だったらしく、永享九年(一四三七)洪水の被害に遭って現在地に遷宮したと伝えられています。本殿は三間社流れ造りで彩色された江戸時代の彫刻は素晴らしいものです。

 近世の「領家」は、毛利氏の支配から幕府領―岡氏領―幕府領(小堀氏)―成羽藩領(山崎氏)―松山藩領(池田氏)―成羽藩領(水谷氏)―幕府領(米倉氏)―津山藩領―幕府領―福山藩領と支配が移り変わり明治を迎えています。村高は正保郷帳では三三八石余、天保郷帳では三二五石余となっています。 

  「領家」の歴史を知るためには「領家」と「地頭」それぞれの八幡宮の信仰の範囲(地域)について研究調査することによって、中世の歴史が一層詳しくなるのかも知れません。
(文・松前俊洋さん)