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地名をあるく 46.小泉

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「小泉」は成羽町にある大字地名の一つで、南側は吉備高原が成羽川へ急傾斜となって志藤用瀬へと落ち込んで「用瀬の滝」なども見られる石灰岩の断崖となっています。

 海抜五〇〇m前後の高原にある「小泉」は起伏の激しい「のろ地形」をしていて、窪になった場所に水田が階段状に見られ、民家が点在しています。東、銅山、 近屋、梶屋、栃木などの集落があり、いずれも古くから小泉銅山を中心に発達した地域だということが地名から分かるのです。

 栃木付近は成羽台と呼ばれる石灰岩地帯で、ドリーネの吸い込み穴と思われる窪もあって、水が成羽川壁面の鍾乳洞へと流れ出ているカルスト地形の場所で、付近を走る市道の壁面に溝状に溶食された(カレン状)石灰岩が見られます。

 戦国時代には羽根村の枝村だったらしく、慶長年間(一五九六〜一六一五)〜寛永年間(一六二四〜一六四四)に書写されたという「備中国成羽八幡旧記」(「渡辺家文書」=「岡山県古文書集」)に「其後羽根村ノ内小泉村へ当天神宮ノ御幣ヲ分テ崇イ定メケリ」の記録が見えています。

 近世になって慶長五年(一六〇〇)幕府領、その後松山藩領(池田・水谷時代)、そして再び幕府領(天領)となって幕末まで続いています。江戸時代の三分の二の期間が天領の時代で途中備後の上下代官所の支配も受けています(「成羽町史」)。

 小泉鉱山は言い伝えによると大同三年(八〇八)に開坑したと言われ、初期の頃は鉛や銀を産出していたが、後になって銅鉛山として稼業したといわれています。近世の頃の銅鉛山としての小泉銅山の歴史は明らかでありませんが、「成羽町史」によると、元禄九年(一六九六)江戸の町人泉屋七右衛門が名義人となって、大坂の泉屋吉左衛門を請負人に立うけおいてて、代官の平岡吉左衛門に銅山の稼業願いを出しています。

 その後、吹屋村の大塚理衛門や地元の甚右衛門・中野村の広兼元治などが請負って稼業していますが、いずれも長く続いていません。幕末には地元の庄屋逸見松之助も稼業しています。明治三年になって住友が、その後明治二一年頃、三菱が買い取って稼業しました。明治二〇年頃が全盛時代だったのです。「成羽町史」の明治三年の「銅山絵図」によると銅山に長屋など多くの建物が描かれ、多くの鉱夫や銅山師が働いていて当時の繁栄が想像できるのです。現在、銅山の跡には山神社が祭られ(社はなくなっているが)石鳥居だけが淋しく残り、「願主摂州大坂小西吉兵衛、同多田銀山橋本喜兵衛」と刻まれ、大阪商人の銅山経営のなごりが印されています。

 梶屋地区(鉱山の鍛冶屋集落)には天満宮があります。安政七年(一八六〇)の狛犬、安政六年建立の石鳥居があって、銅山庄屋などの名が刻まれています。

 そして、近屋(銅山に近い集落)地区には成羽河岸へ通じる人馬の道の跡が山の尾根伝いに残り、鉱山跡付近には曹洞宗観音寺や逸見庄屋の屋敷跡が残って昔のなごりを留めています。

 「小泉」という地名の由来には諸説もありますが、「コヰズミ」の「コ」は接頭語で「ヰ」は「水のあるところ」を意味する地名なのです。また、「イズミ」は「出水」で湧泉地の意味と瑞祥地名(めでたいことのきざし)の意味があるのです。高原にありながら水田も多く、水に恵まれた地域を示す自然地名なのです。
(文・松前俊洋さん)