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地名をあるく 42.布瀬

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 備中町「布瀬」は、吉備高原を開析した成羽川ブイ字谷となり、穿入蛇行して流れるところに、南西から布瀬川が成羽川に合流している場所に位置しています。布瀬川の出口には一〇〇メートルぐらいの高さの丸山と呼ばれる小さな山があります。この山は成羽川の差別浸食によって分離された山(ケルンコル)で、分離丘陵(ケルンバット)といわれています。

 「布瀬」の集落は、いずれも狭隘な谷筋に位置しています。布瀬川の上流は石灰岩の奇岩の絶壁が美しい磐窟渓となっています。

 中世の「布瀬」は川上郡六郷の一つ穴門郷に属していた(「川上郡誌」)といわれ、戦国時代に「布施」の地名が見えています。「吉備津神社文書」(「岡山県古文書集」)の中の「流鏑馬料足納帳」の記録に康正三年(一四五七)分として吉備津宮へ流鏑馬費用として二百八十文ふせが直納と書かれた記録が残っています。また、「成羽八幡神社旧記」(「渡辺家文書」=「前掲書」)に三村家親の頃(一六世紀中頃)当時の神主渡辺甚兵衛が摂津国(現・大阪府)より布施村に来て、古振甚兵衛と名乗って古振というところに住んでいたという記録があります。

 江戸時代の「布瀬村」は上下代官所領(天領)の石高、五三四石余り、成羽山崎領一八九石余、村高合計七二三石余(「備中村鑑」)などとあって、大部分が天領、一部が山崎領となっていました。「備中誌」には三二四石余、反別二七町八反余で特産物は蠟(ろう)とあって「日本最上」と記しています。近世には成羽川の高瀬舟による河川交通も盛んになり、布賀の野呂から人馬で「野呂の道」を下り「布瀬」で河岸に出る輸送路もあった(「備中町史」)のです。

 「布瀬村」は明治一〇年(一八七七)七瀬村の一部となり、その後再び分離して布瀬村と七地村に分かれ、明治二二年(一八八九)富家村の大字となっています。

 「布瀬」(「布施」)という地名は各地にあります。(1)「布」には「〜のあいだ」「高所と高所のあいだ」「指のあいだ」などの意味や(2)「ふ」は「二つの略」で、「ふせ」は「二つの瀬」を表す意味もあるのです。また、(3)「ふす」(臥)の「倒れる」という意味から「傾斜地」を表す地形地名にも使われます。(4)「布施」という場合は仏教語で財を施すことをいいます。果たして、どれが正しい「布瀬」なのでしょうか。「布瀬」の地名の由来については(1)(2)(3)が最もふさわしいのではないかと思われるのです。
(文・松前俊洋さん)