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地名をあるく 40.大瀬八長

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 高倉町「大瀬八長」は、高梁川の右岸にあって、なだらかな波浪状の地形を呈する松原町神原や落合町原田地区のある海抜四〇〇〜五〇〇mの吉備高原の山塊が、東の高梁川に向かって落ち込んだ場所に位置しています。山から流れ出る小さな谷の出口付近の河成段丘に「大瀬八長」地区があります。

 高梁川を隔てて対岸には津川町今津の幡見や辻巻があり、また備中松山城のある臥牛山(四八七m)がそそり立っています。

 「大瀬八長」は中世には近似郷に属していました。その頃の様子は定かではありませんが、応永元年(一三九四)の「吉備津宮惣解文」の条(文禄五年=一五九六)の中に、河上郡近似郷が大麦・小麦百石として山城秋平が納めている記録(「岡山県古文書集」=「吉備津神社文書」)が見え、その中に近似村、宇長村、肉谷村の一部が含まれていたと考えられています。

 近世になって寛永一五年(一六三八)頃の「寛永備中国絵図」(池田家文庫)に、松山藩近似村 高一一六石余と書かれ、宇長村(高六四石余)、肉谷村の一部(高六九石余)となっていて、八長と肉谷の一部が近似村だったことが分かります。その後の「正保郷帳」(正保二・三年頃=一六四五・四六)には、近似村二六五石余と記録され、松山藩領、枝村に八長村(「うなが」の振り仮名がある)、大瀬村、肉谷村そして肉谷の内の大瀬村が書かれているのです。ここで大瀬村の名が初めて見られ、しかも肉谷村の一部だったことが分かります。

  江戸時代の「大瀬八長」は、川の対岸に松山城、そして新見往来が通っていたり、辻巻番所があって、松山城下の北の入口に当たっていたので、対岸からの監視場所としても重要な位置を占めていました。また、八長山一帯には五七町余の藩有林があって、山番が管理していました(「高梁市史」)。そして、天明三年(一七八三)には楮が松山藩の御留楮に指定されていて、貴重な山だったのです。

 その後、明治二二年六月一日の町村制施行のとき、川上郡近似村だった「大瀬」「八長」の二地区を合わせて川上郡高倉村となって「大瀬八長」がその大字名となりました。

 産土神は高梁川の縁の宮川沿いにある一宮神社で流れ向拝をもつ一間社の本殿があります。「備中誌」によると小長とあり一休(「体」になっている)大明神とか不流堂ともいうと書いています。高梁川の洪水時に被害が少ない場所にあったのです。寺院には八長地区に薬師如来・釈迦牟尼佛を本尊として、永享六年(一四三四)開創と伝えられる曹洞宗長柳寺があります。境内の石灯ろうには寛文七年(一六六七)の銘があります。

 「大瀬八長」の地名の由来について「大瀬」は川の早瀬とか大きな瀬の意味で、いつの時代にか高瀬舟の船頭達が付けたのか、高梁川が有漢川を合流し、大瀬付近で大きく折れ曲がって浅瀬で急流をつくっている場所で、近世には松山藩が簗を仕掛けていたところで、川岸には番小屋を設けていました。今でも地元の人は付近を「簗場」とか「簗小屋」の地名で呼んでいます。

 また、「八長」の地名は「高梁市史」には「一宮神社に尾の長さ八町もある鳥が飛んで来て、その尾が長尾といわれるところまで届くほどであった」という説話説を書いています。「八長」は古くは「宇長」と表記されていたようで、「うな」は畝・宇奈・宇那などと同じで山の嶺とか畝を意味することが多く「おな」は女・小名などと書いて畦道とか高くなったところを表わす地名なのです。この意味から縁起のいい「八」の字に転化した地名なのかも知れません。
(文・松前俊洋さん)