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地名をあるく 36.平川

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回取り上げる地名は備中町「平川」です。「平川」は、成羽川が開析した急斜面の谷(ブイ字谷)となった峡谷(成羽川)の右岸にあって、吉備高原上に位置していて、起伏の緩やかな野呂地形となっています。中でも、龍王山(五六三m)や日野山(六六九m)のように穏やかな形をした高い山は準平原上に孤立して存在するトロイデ型の火山で、玄武岩の残丘(モナドノック)なのです。

 波浪上の高原には、「ソネ」(高い嶺のところ)とか「ソラ」・「ウネ」・「サコ」・「クボ」など地形の特徴を表す地名が多く見られ、山の部分は赤土、くぼは黒土が多く、斜面のほとんどは畑作地帯で、水田はくぼや低地に階段状に分布しています。地質も複雑で、中でも石灰岩の場所は地表面が地下の空洞へ陥没するという初期の陥没ドリーネがあって話題になっています。

 「平川」の歴史は古く中世には、「和名抄」にある下道郡のうち、北部五郷が独立して川上郡(河上)となり(「拾介抄」)、その後、穴門郷を加えて六郷となったといわれ「平川」はその穴門郷の中心、すなわち「本郷」だった(「川上郡誌」・「備中町史」)といわれています。平川村の庄屋だった「平川家由緒書」(「備中町史」)に「備中七十二郷、川上郡六郷之内、穴門の郷本郷たり。近世平川氏たるもの領主故旧号ヲ改平川村ト称ス」と書かれ「平川掃部介高親が近江源氏の出身で、 建武三年(延元元年=一三三六)に近江国野洲郡平川から備中国川上郡穴門郷の領家職(荘園領主の呼称の一つ)となって移住、本郷に自分の氏名をつけ平川村と称し、紫城を築いて領主となった 鋤崎八幡宮は近江の国平川氏の氏神だった」と書いています。

 近世の「平川村」は慶長五年(一六〇〇)毛利の支配から幕府領、元和三年(一六一七)松山藩領、同四年成羽藩領となり寛永一六年(一六三九)には再び松山藩領となった後、寛永一九年(一六四二)には幕府直轄領となりました。文化九年(一八一二)から天保九年(一八三八)には津山藩領になりましたが、再び幕府直轄領となって明治を迎えています。

 正保二・三年(一六四五・四六)の「正保郷帳」では石高一三七八石となっていて川上郡内では一番石高の多い村でした。「天保郷帳」(天保五年=一八三四)では二一五六石余で、村を西大組・西元組・中組・元組・東組・長谷組の六組に分けて村高を決めていて(「備中村鑑」)、それぞれ庄屋、年寄などの村役人を置いていました。

 平川村は水利に恵まれない畑作の多い村でしたが、大豆・粟・米などのほかに商品作物の栽培も盛んとなり、茶・楮・漆などの特産物の生産や、紙すきも盛んで当時は貴重な年貢として納めています。成羽川沿いの井川や川戸には、七艘の高瀬があって(「備中町史」)、年貢米や野呂の特産物を輸送する高瀬舟の川湊がありました。神社に平川氏が近江から
勧請したといわれる鋤崎八幡宮があり、今の本殿は享保一七(一七三二)に塩飽諸島の船大工によって建築されたもの、境内に平川金兵親忠など名が書かれた享保三年(一七一八)の石灯ろうなどが残っています。秋祭りは若連中の「渡り拍子」によって盛り上がり、また、古い宮座の行事も残っています。

 新成羽川ダムの湖底には、日本における最古の河川水運の開発工事完成記念碑が残っていて「笠神の文字岩」といわれ、国指定の史跡になっていて岩の銘文に徳治二年(一三〇七)に高瀬舟を通す難工事を完成したことが書かれています。このほか、「平川」にはこの村の歴史を語る多くの文化財や民俗資料が残されています。

 「平川」という地名は建武三年、近江国から平川高親が領家職となって、この地域を治めて以来、村名となり地名となったもので、人物名が地名と一致する代表的な例なのです。和気町などと同じ人物地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)