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地名をあるく 35.北山

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「北山」は落合町阿部にある小字地名の一つで、高梁川の支流、成羽川の左岸に位置しています。北山地区の南に広がる平地は、成羽川の氾濫原(河成段丘)で、商工業地域になっています。この段丘面は過去に河床だったところで今の国道三一三号の通る線が斜面と平地の境となっていて、北は花崗岩でできた老年期の準平原化した吉備高原の山で東の稲荷山(四一八m)の山塊が西へ延びて阿部の「北山」(三三二m)の山地となります。この山々は、今から二〇〇万年から七〇〇万年前にできた(新生代第三紀)といわれ、その後南側斜面が侵食され、成羽川の段丘面へと土砂を流してできた緩斜面が現在の「北山」地区の字名をもつところで、多くの集落が見られる地域なのです。「北山」は南向き斜面で日当たりもよく、古くから多くの人々が住んでいたらしく、井谷川から続く山すそには弥生時代の遺跡や古墳時代の石棺が見られ、赤羽根古墳群や北山古墳群があります。

 この斜面は、現在「北山」という町内会名となっていて戸数約一六〇戸の市内では一番大きな町内会で、絶好の住宅地なのです。東は近似や、高梁市街地、西は井谷、才原、藤倉、境谷が、南は成羽川の対岸、玉川町神崎、下切があります。北の吉備高原上には、落合町原田川乱、松原町神原があります。

 「北山」のある落合町阿部は古くから発達していて、古代から中世にかけて近似郷に属し、当時近似とともに二村の一つが落合でした。近世になって寛永備中国絵図(寛永一〇年=一六三八)には山崎領、阿部村高七二六石余となっています。その後の正保郷帳(一六四五〜四六)では松山藩領となり、元禄八年(一六九五)ごろの高一一六六・四石余と記録されていて、中でも段丘面と「北山」斜面が主な米作の中心だったのです。庄屋は仲田徳太郎だった(「備中村鑑」)と記録されています。

 また、高梁川対岸の松山東村にあった青木から渡し舟で渡った成羽往来が「北山」地区の斜面のすそを通っていました。古い時代の道や集落はこの斜面すそにありました。段丘面の国道沿いに市場の集落がありますが、近世になって「北山」から下の市場に移り住んだ家も多く、江戸、明治、大正にかけ高瀬舟で舟稼ぎをしていた家もありました。

 「北山」地区は水田が多く、山すその池からかんがい用水を利用して棚田状の水田が分布しています。

 産土神は「北山」の山すそに鎮座する天神社で、創立は不明ですが江戸時代の初め原田の久保にある天神社を分霊して勧請したもので、文政一〇年(一八二七)の手洗鉢、天保一一年(一八四〇)銘の石燈ろうなどが当時の繁栄をしのばせてくれています。山の中腹に火之迦具土大神という鎮火、防火の神を祭る秋葉神社があって一二月一五日・一六日を祭日として江戸時代から信仰が厚く、阿部を見下ろしているのです。また、旧道のほとりには寛政六年(一七九四)銘の日本開国供養塔が立っています。

 「北山」という地名は分かりやすく各地に見られる地名です。何か基準(中心)になる場所があって、そこから東・西・南・北など集落や山などの方角や位置を示すために付けられた地名で「北山」は「阿部の平地(街道)より見て北にある山」の意味だったところから、今では山のふもとにある「集落名」となった地名の例で方位地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)