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地名をあるく 34.穴田

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 宇治町に「穴田」という地名があります。吉備高原上に宇治盆地をつくって流れる島木川の西側一帯、支流の塩田川の流域に位置していて、高原の地形がうねり北の成羽町中野との境には六一九mの青竜山がそびえています。耕地は斜面に階段状の水田や畑が分布し、陰地、日名、野呂、宮陰地、塩田、丸山などの集落が点在しています。

 「穴田」いう地名は何時頃から生まれたのかよく分かっていません。古くは承平年間(九三一〜九三八)にできた百科辞書「和名類聚抄」に下道郡「穴田」(安奈多)郷が出てきます。そして「大日本地名辞書」(吉田東伍著)に『「穴田郷は今高山村、平川村、富家村等で成羽川の南岸、西は神石郡、南は後月郡に至る」と書いていて「穴田といわず穴門(奈加止)という」などと説明しています。また「府志」の内容を紹介して「穴田郷と穴門郷を別にしている。地形より見れば宇治村は成羽郷で穴門郷は和名抄の穴田に当る」穴田郷は高山・平川の前岸にある宇治村、中村にも大字「穴田」がある。古くから「穴田」は二郷に分けて呼んでいた』などと説明していて、古代地名の「穴田」の中心を高山の穴門付近と宇治の「穴田」付近の両説をあげています。今では、宇治町の本郷、穴田、丸山付近が郷域に推定されているのです。

 中世には承久三年(一二二一)信濃から赤木氏が穴田郷とその付近を賜って新補地頭として、この地にやって来て滝谷城をつくり土居屋敷に代々住んだと伝えられ、中野村に大氏八幡宮、宇治村に池原八幡宮を建てた(赤木家文書=岡山県古文書集)と伝わっています。そしてまた 永享元年(一四二九)の池上家文書の「惣社宮造営帳写」(前掲書)の中に国衛御領棟別一間に二〇文課せられた記録に穴田郷が出ています。また「吉備津神社文書」の「流鏑馬料足納帳」の中の康正三年(一四五七)分として「あなた中村」が、長禄二年(一四五八)分として二貫五〇〇文を「穴田西方直納」などと記録されています。また、御前神社棟札(「川上郡誌」)に「穴田郷四か村」とあって、その一つに川上郡遠原村が書かれています。中世には「穴田」の地名が多く使われていて宇治(塩田、丸山)、中野、坂本、中村(長地、布寄、相坂、小泉)など広い範囲に渡って「穴田」だったことが分かるのです。

 近世には、穴田郷内一二か村として、塩田、丸山、宇治、遠原、中野、吹屋、坂本、布寄、長地、相坂、羽根、小泉の村々がありました。江戸時代の各村は毛利の支配から幕府領、松山藩領、倉敷代官所の支配など村のたどった歴史は異なり、石高も違います。近代になって明治一四年(一八八一)塩田村、丸山村が合併して古代、中世の歴史地名を残した「穴田村」が成立します。そして明治二二年(一八八九)には宇治村の大字になり現在に至っています。

 古代の「穴田」は現在の宇治町一帯に比定されています。「穴田」は古代からの歴史を語る地名といえるのかも知れません。

 「穴田」という地名は大阪や長野にも見られ、「穴」のつく地名は多いのです。「穴井」「穴原」「穴部」「阿那」などがそうです。洞穴や穴状に入り込んだところ、畑のまわり、畑の周囲の斜面、などの意味を示すことが多いのです。石灰岩の地域の多い「穴田」付近にふさわしい地名なのでしょうか。
(文・松前俊洋さん)