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地名をあるく 31.丸山

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「丸山」は市内宇治町穴田にあり、北は宇治町本郷、東は宇治、西は日名・白和、野呂・宮陰地、南は成羽町羽根などの集落があって、島木川の右岸に位置しています。盆地状になった周りの山々は吉備高原の地形らしくうねうねしていて海抜三〇〇mから六〇〇m前後の山々に囲まれて、西に青竜山(六一九m)がそびえています。付近には所々に山砂利層(粗粒礫層)といわれる川で侵食された礫岩が含まれた地層が見られるのです。

 「丸山」は江戸期から明治一四年(一八八一)まで「丸山村」でした。毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領、同八年(一六〇三)から松山藩領となりました。そして、明治一四年(一八八一)西側にあった塩田村と合併して穴田村となりました。近世「丸山村」の石高は、江戸初期の小堀検地では二一四石余でしたが、後の「正保郷帳」(正保二・三年頃=一六四五・四六頃)や「天保郷帳」(天保五年=一八三四)、「備中村鑑」(万延元年頃=一八六〇)、その後の「旧高旧領取調帳」(慶応=一八六五〜六八から明治四年=一八七一)いずれも五四四石余となっています。また、「備中村鑑」には「五万石板倉周防守様御城下」とあって「庄屋萩原徳五郎」を挙げています。 

 「丸山」の南の端・島木川の右岸に地名のもとになった丸山城跡があります。北の本郷付近から眺めると道が登り峠になっている場所に、釣鐘状(乳房状)の円項丘を遠望することができます。城跡の西側は、山を切って平坦にしたと思われる場所で、近世の庄屋だった萩原家の墓地や屋敷があります。

 天正一〇年(一五八二)には父忠房が忠直に兵をつけ高松城水攻めの救援にかけつけさせ、輝元から感状と百貫文の領地をもらったと伝えられていて、その時の感状と思われる記録に「天正一〇年五月五日隆景(花押)赤木與四郎(忠直)殿御陣所隆景」(「赤木家文書」=「県古文書集」)が残っています。

 一説には赤木忠直が丸山城を築城したともいわれ、関ヶ原の合戦後帰農して廃城になったと伝えられています。今に残る標高差約五〇mの山は、規模こそ小さいが防御施設としての中世の山城(丘城・平山城)の様式が残っています。主郭と思われる頂上の平坦部には周囲に土塁の跡が残り二の丸、三の丸、出丸といわれる段は、いずれも腰曲輪で、切岸や土塁など土木工事の痕跡が残り、またふもとの切り通し付近に城主の館があったのか根小屋という屋号も見られるのです。この砦は羽山峡に沿う吹屋往来と黒鳥、長屋、田原方面への通路を制する重要な位置にあったのです。

 丸山城跡の西には三村家親が再興して塩田村の産土神にしたと伝えられる若宮八幡宮があります。木製の控柱をつけた両部鳥居をくぐり参道を進むと元治二年(一八六五)二月赤木芳治郎平忠利と書かれた石燈籠そして拝殿には戦いの大絵馬や小野小町などの絵に和歌を書いた絵馬が掲げられ、本殿は一間社流造となっています。また、鎮守の森の北側には明暦二年(一六五六)創立と伝えられる曹洞宗蓮福寺(本尊阿弥陀如来)があって、中世から赤木氏が支配した地域の歴史的魅力をとどめる「丸山」なのです。

 「丸山」という地名は分かりやすい地名で、円形の丘陵などの地形を意味して、円墳とか丸い形をした山名などを表す場合が多いのです。宇治の「丸山」は盆地の南にあって丸山城跡の円頂丘の山は、子どもたちも「プリン山」などと名付け古くから地域のシンボルとして人々に愛された、目立って形の良い山だったのでしょう。その山名に由来する地名が「丸山」なのです。
(文・松前俊洋さん)