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地名をあるく 30.仁賀

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「仁賀」は現在の高梁市川上町仁賀で、谷や河成段丘面を除けば標高一五〇m~四五〇mの起伏に富んだ波浪状の高原になっていて、地形学では「川上面」と呼ばれる侵食小起伏面に被われた地域なのです。
 波浪状の高原には畑が広がり道が交差した付近には、地神様と弘法大師堂や観音堂があって、地域の人々の太子講など信仰の面影が残っている高原の村らしい風景があります。道の分岐点には嘉永六年などの年号を刻み、弘法大師像を彫り込んだ小さな石仏の道しるべが立っています。「仁賀」は、和名抄に出ている下道郡弟翳郷で山城相国寺の荘園でした(「講座・日本荘園史」)。近世になって毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領となって小堀氏の支配となり、元和三年(一六一七)池田長幸が支配し、その後池田長幸死亡により天和三年(一六八三)代官米倉平大夫支配となり撫川(現岡山市)の旗本戸川領に編入され幕末に至っています。
 近世には「二ヶ村」(二箇村)と呼ばれていて検地帳が残っています(「川上町史」)。それによると「村高六一一石余、内訳は田四町一反余、三七四石余、畑六〇町六反余二一八貫余、屋敷二町四反余一八貫余」この記録は「慶長五年毛利輝元の家来三輪加賀殿検地」(平川村明細帳=平川文書)とあることから毛利検地によるものだろうと推測されています。
 「備中村鑑」に「御高五千石戸川方之介様御屋舗撫川」とあって「川上郡左屋村三宅幾太一六六石余二ヶ村七三四石余川上静太、赤木役次」と枝村の佐屋村を本村の二ヶ村と分けて取り上げています。「佐屋村」については「備中国川上郡二ヶ村之内左屋丙午年御物成可納定之事」(「川上町史」)として天明六年(一七八六)〜文化一一年(一八一四)、それぞれ二固村之内左屋村年寄(庄屋)伝兵衛殿としてあてた年貢免状で田九三石余畑七三石余となっています。二箇村側の手
佐屋と芳井側の佐屋村とがあって以前は一村だった佐屋村を天正年中(一五七三〜九二)の毛利検地のとき、郡の境を明確にするため北部を手佐屋村としたといわれています。天保郷帳では佐屋村(芳井側)一四九石余りのち明治村となり、手佐屋は二ヶ村佐屋からのち大賀村となりました。
 「仁賀」には地頭から中筋、安成への登り口に渡り拍子で有名な大谷八幡神社、佐屋には大神社など古い神社があります。また、高原上に上房があってかつてここに仁賀小学校があったところで、工場の裏に室町時代のめずらしい宝篋印塔型の庚申塔があり、大谷川の左右には高岳の集落があって「寛文八年(一六六八)仲春日」と銘のある梵鐘が残る曹洞宗観音寺があり境内には弁財天を祭る堂が建つ。領家川の河成段丘上に小谷ヶ市があります。以前役場も置かれていました。すぐ上流には昔から奇岩怪石がそびえる風光明媚な景勝地として知られる松原山がそびえ、その対岸(左岸)にはお
伽噺に出てくるような形の南天山があります。ここは国指定の天然記念物である大賀デッケン(大賀衝上)として知られている場所で中生代三畳紀の泥岩、砂岩の地層の上に成羽層群の古生代の石灰岩が衝上断層によって押し被さっている地質上有名な場所なのです。すなわち松原山(右岸)南天山は押し被った山なのです。
 「仁賀」の地名は近世には「二ヶ村」「二箇村」でした。明治九年(一八七六)に佐屋村と二ヶ村は合併して仁賀村になりました。「二ヶ」(二箇)の由来ははっきりしませんが、古くから使われていたようで何が「二ヶ」なのか、どんな村と村の「二ヶ」なのか分かっていませんが、いずれにせよ漢数字の「二」であることは確かで古くから序数に用いました。「仁賀」の「賀」は所や場所を示す接尾語なのです。
(文・松前俊洋さん)