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地名をあるく 28.奥万田

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「奥万田」は現在の高梁市奥万田町。城下町らしい景観の残る伊賀谷川(紺屋川)に沿って東に上り、高砂橋のある伯備線の踏切を渡ると左手に頼久寺町、右手に龍徳院・巨福寺の見える寺町、さらに伊賀町通りの坂道を進むと左手に順正短期大学、吉備国際大学などの伊賀町が、そして、伊賀川の右手(南側)一帯は、「 荒神鼻」付近から東へと高くなる丘陵地で、アパートや民家が立ち並び坂を上ると、元親池や階段状の水田が見られ上に行くほど山が深まり、山間の地形が狭くなる。
 楢井を経て吉備中央町大和へと通じる「楢井坂」の登山口に当る町が「奥万田」なのです。
 「楢井坂」は近世になって松山城下と賀陽郡野山村を結ぶ「野山往来」として、松山藩にとって南東の方向が防衛上最も弱点だったことから軍用上大変重要視された道でした。
 安政四年(一八五七)には、野山西村(現吉備中央町大和西)へ松山藩士を移住させ墾田や警護にあたらせ(「野山在宅」)、この藩士たちのための学問所(「野山学問所」)をここに創設し、有終館から狩野剛治が学頭として派遣されています。
 「奥万田」は江戸時代、村の再編があったらしく、どの村に属していたのか松山東村・松山西村の名称が元禄八年(一六九五)頃から幕末まで使われていたり、正徳年間(一七一一一六)頃から原東村・原西村も使われていて複雑なのです。
 江戸時代末の「備中誌」には「原東村、高六九四石余、東西二二町、南北一里一一丁枝村ならびに小名 億万田(古名 奥灘)岸の上大久保、玉坂、広瀬」と書かれ、また原西村のところにも「東西五町、南北一八町枝村ならびに小名に辻巻、小高下、奥灘(近世 億万田を改む)、楢井、岸之上、山之上、青木、戸数二〇〇軒、人数九六七人」と書かれているところをみると、岸之上と同じように、松山東村・松山西村へ分割されて区分されたことが考えられるのです。後の明治になって松山東村と西村は合併し高梁村となり、明治八年(一八七五)には松山村となっています。
 町を見下ろす絶好の場所に宝暦四年(一七五四)の観音様を祭る堂があり、その裏に高い石垣の荒神社が立ち、この付近を昔から地元の人々は「荒神鼻」と呼んでいました。
 火災や洪水の時には、町の多くの人々が避難して鎮まるのを待った場所と言われています。
 また、この奥には真言宗日照山安養院があり三村元親の位牌を祭っています。
 また、松原山の奥万田側のすそ付近にあったといわれる松蓮寺は弘法大師開基と伝えられる古刹で、天正三年(一五七五)の備中兵乱で松山城が落ちて城主三村元親は六月二日、「奥万田」の松蓮寺へ来て、毛利方の栗屋与惣右衛門らに検使を願い「人という名を借程や末の露消てそ帰る本の雫に」という辞世の句を残して六月二二日に切腹(「備中兵乱記」)したと伝えられ、元親池の碑に句が残されています。「奥万田」には、三村元親の霊を祭る元親神社もあります。
 「奥万田」の地名の由来は?「万田」すなわち「小さな多くの田」の意から「山奥に多くの田んぼのある所」という意味なのです。
 「角川地名大辞典」には「奥が広く小さな田が多いところ」と書いています。?「灘」は「なだり」という傾斜地や崩壊地を表す自然地名だという説がありますが?の方が分かり易いかもしれません。
(文・松前俊洋さん)