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地名をあるく 26.中野

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「中野」は、現在成羽町にある行政区の地名(旧大字名)であります。中世は穴田郷に属し、江戸時代には川上郡中野村、明治二二年(一八八九)から中野村本郷は宇治村本郷となり、中野村長田・田原は吹屋村中野となりました。吹屋村は明治三四年(一九〇一)から吹屋町、そして昭和三〇年(一九五五)から合併して、成羽町の大字になったのです。
 「中野」は吉備高原上にある地域で、標高六六三mの三角点を持つ「矢広大山」のすそ野一帯で、高原上の山々や小さな谷沿いに凹地が見られ、なだらかな起伏が続いています。東には宇治町宇治、西には成羽川の支流で坂本断層谷といわれる坂本川が流れ、その川を隔てて備中町東油野、西油野が、北には成羽町吹屋が、南には宇治町穴田が位置しています。
 近世には毛利氏の支配から慶長五年(一六〇〇)から元和三年(一六一七)まで天領(幕府領)でした。寛永(一六四一.一六四三)の頃には、「石高六三七石余り領主米倉平太夫・枝村に穴田市村、長田村、松木村、屋広(矢広)村」(「備中集成志」)が記録されています。その後、松山へ池田氏が入封して、以後元和三年(一六一七)から寛永一八年(一六四一)までと、水谷氏が藩主となった寛永一九年(一六四二)から元禄六年(一六九三)までが、松山藩領の時代でした。この頃の「元禄検地」には中野村本郷、中野村大野路、中野村小野路と分けられて地名があげられています(「備中村鑑」)。この松山藩領の時代は合計七五年間で、それ以後は元禄六年から慶応四年(一八六八)の倉敷県となるまで、一七年間再び天領の時代を迎えているのです。「成羽町史」に「江戸時代の約三分の二は天領の時代」で「準天領グループの村々」の一つとしてあげられています。幕末の頃の「天保郷帳」(天保五年=一八三四)では、「川上郡中野村、高八五八石余り」となっていて、江戸時代の初めよりかなり石高が増加しているのです。
 「中野」には島木川の支流の滝谷川沿いに滝谷城跡(標高四八〇m)があります。吹屋往来を守る滝谷城は、要衝の位置にあり、東西に長い楕円形の独立丘の頂上が城跡で、南側は絶壁となって滝谷川へ落ち込んでいます。
 この城を築いたのは承久三年(一二二一)の乱の戦功で信州よりこの地の穴田郷の新補地頭としてやって来た赤木太郎忠長が築城したと伝えられ、本郷に屋敷を構え、その後子孫が代々この地に居住したと伝えられています。今でも赤木氏の墓と伝えられる中世の五輪塔が残っています。
 また、庄屋だった広兼家は享和年間(一八〇一.〇四)頃から弁柄庄屋として弁柄の製造所を野呂山に設置したり(「備中吹屋町並調査報告書」)、小泉銅山経営にも当たったりしていました。城郭を思わせるような豪壮な家宅や庭が残っています。
 中組には奈良時代に勧請したといわれる清実八幡宮があって、赤木氏との関係が伝えられて、古い歴史をほうふつさせる地域なのです。
 「中野」という地名は、至るところで見かける地名で、数の多い地名の一つです。例えば「中郷」「中之郷」とか「中庄」「中野庄」なども同じ意味を持った位置を表す地名なのです。これは「中心の集落」とか「中心となる荘園」などの意味を示す地名ですが「中野」も同じように位置を示す分かりやすい地名の一つなのです。
 「中野」とは「中」の「野」の意で付けられた地名で「真ん中にある村」とか「中央部の野」とか「山間の野」という意味を表す地名なのです。
(文・松前俊洋さん)