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地名をあるく 17.柿木町

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「柿木町」は旧高梁市街にある町名で、北は伊賀谷川から南は荒神町・西間之町までと、東側は向町、西側には鍜冶町通りが平行して走っています。
 「柿木町」という町名は、近世松山城下の時代に下級武士が住む家中屋敷町の一つで「柿木丁」と表記されていました。この城下町時代の町名が今も、そのまま受け継がれた町なのです。
 「柿木丁」は江戸時代初期の元和三年(一六一七)になって池田長幸により取り立てられた町で、松山城下のほぼ中央に位置し、町並みは「竪町型」の町通りとなっています。伊賀谷川を隔てた北側の中之町の町通りと「柿木町」の町通りは、見通しが利かないように谷川を境に町筋を鍵型にずらしています。
 元禄(一六八八~一七〇四)頃には、長さ一丁五五間、家数一九軒があって、一〇〇石から三〇〇石の武士や七人扶持・一五人扶持(一人扶持は一日五合の扶持米を給される)などの武士が住んでいました(「水谷史」=「御家内之記」)。その後、正徳元年(一七一一)から延享元年(一七四四)頃の石川氏時代には、町の東側に家中屋敷三と御先手長屋、御持筒長屋、御旗長屋が、西側には家中屋敷五と同心長屋、そして泰順寺という寺が描かれています(「松山城下絵図」○写=亀山市図書館)。
 また同じ頃の延享元年の「松山家中屋敷覚」(市図書館)には、柿木丁一四軒の内、五軒家中屋敷、一棟長屋一、番所、木戸番、六軒の一棟長屋、西側に明地があったと記録されています。
 幕末の嘉永二・三年(一八四九・五〇)頃から安政初年(一八五四.五八)頃には、道の東側一〇軒、西側には正善寺境内を除いて八軒の侍屋敷があったらしく、一〇石~一〇〇石取りの家臣が書かれています(「昔夢一班」)。番所は正善寺の北東の隅、すなわち西の鍜冶町へ通じる鍵型になった小路の入口にありました(「松山城下屋敷図」=市図書館)。
 このように、天保三年(一八三二)と天保一〇年(一八三九)の大火(「増補版高梁市史」)以前と以後でかなり屋敷の配置や戸数が変わっていることが分かるのです。
 幕末から明治にかけてこの町には寺子屋や私塾があって、鎌田玄渓や荘田霜渓などが漢学や習字などを教えていて、教育の町にもなっていたのです。そして、明治一二年頃からキリスト教の布教も活発になり、同二二年になって伊賀谷川に面した柿木町の入口には、木造洋風の高梁基督教会堂(県指定)が出来て多くの医者や学者を排出しています。今では「柿木町」付近は病院や公的文化施設の多い町になっていて道路の幅も広くなり「城見通り」と名付けられ、武家屋敷の残っていた町筋も昔の面影がなくなってしまいました。
 「柿木町」という地名の由来は、この土地に植生する植物名をそのまま地名にした例で、昭和の初め頃までは武家屋敷の庭には必ず柿の木があったといわれ、秋になると柿の実が熟れて、柿が目に付く町通りだったのです。
 柿は古くから中国や日本で美果とされていて「味は金液(橘=ミカン類の古称)よりも重し」(「字通」)といわれ、当時の武士の家の副食物にもなって生活の基盤に直接かかわっていて大切にされたのです。このような植物地名は全国各地に見られるのです。
(文・松前俊洋さん)