ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 広報たかはし > 地名をあるく 16.柳丁

地名をあるく 16.柳丁

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 成羽町に「柳丁」という町名があります。南の愛宕山(三七〇m)・鶴首山(三九二m)の北麓に位置し、成羽川の右岸、河成段丘上に出来た低地(氾濫原)にある町筋の一つであります。
 「柳丁」のある下原一帯は、以前下原村でした。前期山崎氏初代の家治は元和三年(一六一七)因幡若桜から入部し、中世三村氏の築いた成羽城(成羽居館)に入り、のち家治が天草に移封され、寛永一六年(一六三九)には下館から水谷勝隆が五万石の成羽藩主として入封しています。勝隆は鶴首山や愛宕山の裾を流れていた成羽川の水路を北へ変えるという大工事(「大聖牛」)を行って河原地だった下原村に新陣屋を造営し、この陣屋を中心にした陣屋町の造営に取り掛かりましたが、わずか四年で松山藩主に転封となったため、陣屋町の建設は中断しました。
 その後、万治元年(一六五八)家治の二男山崎豊治(後期山崎氏初代)が丸亀から入部し、水谷時代の陣屋を拡張して大規模な「御殿」を完成させ、御殿を中心に陣屋町の町割りを整備・拡張して新しい陣屋町の建設に努力しました。
 町筋は武家町も町屋地区も、町の防備を考えて鍵型に折り曲げ見通しを悪くし、東の町屋は、町通り(大路)に交わる小路を設けた町割りになっていて、近世城下町(陣屋町)の特徴をもった 竪町型の陣屋なのです。

 「柳丁」は、本丁に継ぐ武家町の一つで、給人格と中小姓が住む家中屋敷町でした。寛政元年(一七八九)頃の「成羽山崎氏陣屋町の配置図」(「成羽町史」)によると、本丁から「柳丁」への入口付近に町口番所が描かれ、角に坂田雪之烝の屋敷(門が復元されて残る)があって川手側にほか八軒の屋敷と東の端に柳丁御門(番所)、南側(山手)には、一三軒(一軒不明)の屋敷が書かれています。
 「柳丁」の通りには「道の中央に溝があった。昭和の始めまで残っていた」(「成羽史話」)といわれ、北の本町上ノ丁大神宮の裏などの水路とつながっていて重要な用水だったのです。「柳丁」に住む武士たちは豊治が知行五千石の交代寄合格で、一万石未満の旗本でありながら参勤交代を義務づけられていたため、警護の侍として重要な役を受け持っていたのです。そして登城の際、江戸城中の殿席も帝鑑の間や雪に柳の絵が描かれた柳の間に通され大名に準ずる処遇を受けていたのです。
 「柳丁」は昭和四十年代頃までは、最も陣屋町の姿を残す町筋だったのですが、今では門、屋敷の石垣、 馬繋、庭、煙出しの入母屋屋敷、土塀、蔵、そして武士の守護神・水郷の神の鹿島神社などに江戸時代の面影を残すのみになったのです。
 「柳丁」という地名の由来については、いろんな説があります。一番多いのは?柳の木の植生によるもので、『「柳丁」付近は河川敷で南端には溝や土手があって風致上柳の木を植えていた。そして、この付近は小川が多くドジョウが捕れていて、江戸期新町の恵比寿祭りにはドジョウ汁をしていた』(成羽町成羽細川寿美雄さんの話)そうで、正に「柳とドジョウ」なのです。?堤や土手、斜面を意味し、屋根の「ヤナケ」・「ヤネ」から変化した。?参勤交代の時江戸詰で江戸城本丸の詰所の「柳の間」から「柳丁」の名を付けて武家町の格式を表わすもの(同)。
 いずれにせよ??の地名説はいずれも関係がありそうで面白いのです。
(文・松前俊洋さん)