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地名をあるく 15.畦地

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
 有漢町に「畦地」という字地名(行政区の名称)があります。県道高梁.旭線を有漢川に沿って北東に上り、市場の集落を過ぎ、有漢中学校を右に見て過ぎると八幡の集落に差し掛かるこの付近は、対岸に小丘陵が迫り、東の奥の吉備中央町と境を接する大平山(六九七m)や權現山(有漢富士)(五九九m)から流れる横見川が有漢川に合流する場所で、横見川に沿った低地には水田が分布し、北側には、吉備高原を侵食した老年期の丘陵面が波浪状に有漢川に向って突き出していて小さな丘の地形を呈しています。この小丘陵地を中心にした場所が「畦地」なのです。
 丘のふもとの斜面に沿って民家が点在し海抜二〇〇m~三〇〇mの小丘陵地で、地質は「新生代新第三紀層の泥岩、砂岩、 礫岩」(「有漢町史」)の地層で小丘陵地の特色になっています。
 「畦地」は江戸初期の寛永備中国絵図(寛永十五年=一六三八)や、正保二・三年(一六四五~四六)頃の正保郷帳によると、上房郡下有漢村に含まれていましたが、江戸後期には天保郷帳(天保五年=一八三四)に下有漢村の肩書付で上村と書かれ、村名が変わっています。江戸初期の下有漢の石高は一〇八〇石余り(正保郷帳)、江戸後期には、「上村の石高一二〇一石余、庄屋、与惣右衛門」(「有漢町史」)と記録されています。
 下有漢村(のちに上村)は、延享元年(一七四四)まで松山藩領となっていましたが、この年石川氏が伊勢亀山へ転封となったため、石川氏が設置した中津井陣屋(真庭市中津井)の支配を受け幕末を迎えています。延享元年には上村の内一九〇石余は亀山藩領、残りの一〇一〇石余りは、有漢上村となり、松山藩板倉氏領として残され、二つの藩から支配されてっています。また「畦地」と横見の境付近には明応四年(一四九五)に秋庭大蔵大夫真光によって再興され、永保年間(一〇八一~八四)の創建といわれる山門に花頭窓を施した臨済宗真光寺があります。
 江戸末期には寺小屋があったといわれる寺で、付近は教育の地だったらしく明治時代の精華小学校の跡地も残っています。今では「畦地」の付近はバイパスが通り道路が拡張され、コミュニティハウスやライスセンター、常山公園などなど多くの施設が出来て「畦地」の地形や風景が変わってきて歴史の面影が薄くなりつつあります。
 「畦地」という地名は「畦」「畔」などの文字で表現されることが多く、全国に分布しています。地名の由来については、?曲がった川岸とか、?田畑の 畦、?自然堤防のあぜような微高地・丘、
?校倉造りのようにあぜ高く積み上げたような意、?アゼはアズと同じく崩崖(崩壊地形)を意味するなどの諸説があります。
 しかし有漢の「畦地」は小さな丘とか微高地を意味する自然地名の一つだと思われるのです。
(文・松前俊洋さん)