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地名をあるく 14.布賀

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
備中町「布賀」は隆起準平原といわれる吉備高原を若い成羽川がV字形に深く削り込んだ峡谷地形となっているところ、成羽川の右岸にあります。
 川に沿った黒鳥の市場集落を過ぎて左に急しゅんな九十九折の坂道を登ったところ、昔の人はこの坂道をつづらおり「胸突き八丁」と表現していました。登りつめると「野呂」といわれた海抜四〇〇.五〇〇mの高原に小起伏の地形が広がり、大原、東、中郷、北迫、郷、 向などの集落があります。耕地のほとんどが畑作で、くぼに少し水田が見られるぐらいです。
 「布賀」は以前(明治二二年.昭和三一年)川上郡の長屋・布瀬の二村と志藤・用瀬の地区を合併してできた「富家村」の大字の一つで、「上布賀」の呼び方で親しまれていました。
 「布賀」の地名は中世戦国時代から見えていて、中郷に鎮座する「布賀八幡宮建立の棟札」(「岡山県古文書集」)に永正一一年(一五一四)九月二二日として「備中国河上郡穴斗之内布賀村源朝臣忠親并願主源経貞…」と記録されていて、当時この地域一帯は穴斗郷だったことが分かるのです。
 近江から平川の本郷に領家職(?)として移って来た平川氏一族が分かれ布賀平川氏として布賀の菖蒲城に依ったといわれ、布賀八幡宮を創立したらしく、棟札に書かれている源忠親、経貞は親子だろうといわれています。後になって、元禄一二年(一六九九)亀石八幡宮と改称されています(「布賀八幡宮由来記」=「前掲書」)。
 近世の「布賀村」は慶長五年(一六〇〇)幕府領、元和三年(一六一七)松山藩領、同四年成羽藩領、そして寛永一六年(一六三九)再び松山藩領となっています。
 その後寛永一八年幕府領、元禄七年(一六九四)から旗本水谷氏領へと移りかわっています。この頃の「布賀村」は「正保郷帳」(正保二・三年頃=一六四五・四六)によると「四八〇石布賀村、幕府領」となっていて枝村に黒鳥村などをあげています。
 旗本水谷氏は水谷勝美(松山藩主)の弟勝時が川上郡のうちで三千石を賜り布賀村の郷に元禄六年(一六九三)に陣屋(知行所)を置き翌七年から領主として幕末に至っています。六代勝得の時、弘化~嘉永年間(一八四四~五三)に高瀬舟による河川交通の便を考えて野呂から黒鳥の河岸場へと陣屋を移しています。
 天保五年(一八三四)の「天保郷帳」には村高九二四石余り、水谷主水知行の頃には(「旧高旧領取調帳」)八五五石余りとなっているのです。
 「布賀」には古い歴史を物語る文化財が沢山残っています。中郷にこんもりとした鎮守の森が見える場所は亀石八幡宮が鎮座していて、多くの棟札が残っています。裏山の峠付近には「塔様」と呼ばれる応永二年(一三九五)の方柱碑があります。
 また、八幡宮の下側には、 永享一〇年(一四三八)銘の石造延命地蔵菩薩立像のある平川氏の菩提寺曹洞宗長建寺などがあります。堂の峠の石造方柱碑(供養塔)は至徳四年(一三八七)銘が刻まれ県の重文となっています。
 「布賀」という地名の由来ははっきりしませんが中世から開けていた村だったことは確かで、「布賀」という地名は「奥行きの深いところ」という意味に用いられることが多いのですが、もしかすると「財産が豊か」「とむ」という「富家」の意から生まれ後になって「布賀」と文字が変った地名かも知れません。難しい地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん