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地名をあるく 12.中之町

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
 高梁の町に「中之町」の地名を持つ町筋があります。紺屋谷川に面したキリスト教会堂の前の住之江橋を渡ったところ、左隅の高梁幼稚園から北への町であります。南は紺屋谷川、北は御前町へ通じる美濃部坂を隔て石火矢町、そして「中之町」の通りを突き当たり、左に折れて北へとつながる町は片原町、東は頼久寺町、西には新町通りが並行しています。
 「中之町」は、江戸時代には「中之丁」と書かれ松山城下町時代の上家中屋敷(紺屋谷川以北の家中屋敷)町の一つで、中堅武士の屋敷地でした。江戸時代初期の元和三(一六一七)年小堀氏に替わって、鳥取から六万五千石で入国した池田備中守長幸の時に取り立てられた町でした。この時代は家臣団も増加し、御根小屋を中心とした家中屋敷町も内堀といわれた小高下川(上谷川)や外堀といわれた紺屋谷川を越えて東や南へと広がり、城下町拡張の時代を迎えた頃でした。
 「中之町」の南、紺屋町との境付近には門を設けたり、町の北の端で町通りを直角に屈折させて見通しを悪くしたり、城下町の防備を考えた町でした。
 元禄(一六八八~一七〇四)頃の「中之丁」は、「長さ一丁二十間、家数十二軒、百三十石、稲川新介ほか十一名」(「水谷史」・「御家内之記」)と記録され、その後石川氏の延享元(一七四四)年にも一二軒、そして幕末の慶応(一八六五.一八六八)年間、板倉氏の頃には一三軒で一〇人の家臣が住んでいました(「増補版高梁市史」)。今でも町割は当時の竪町型の城下町の面影や、
短冊型(京型)の屋敷割の面影を残している町なのです。
 また、江戸時代の藩校「有終館」が「中之丁」の紺屋谷川に面した位置(現・高梁幼稚園)にありました。延享三(一七四六)年、初代板倉勝澄によって本丁(現・内山下)に設けられていた学問所が四代板倉勝政の時、「有終館」と名付けられ藩校となりましたが、天保三(一八三二)年の大火で焼失したため、当時の学頭だった奥田楽山によって「中之丁」に再建されました。それから後、天保一〇(一八三九)年二月の大火によって再び焼失したため学頭だった山田方谷によって再建され以後、松山藩の教育発展の中心となり明治四(一八七一)年まで続きました。この「有終館」には講堂や聖廟、剣道の道場、そして門長屋などの施設が整い、県下でも有名な藩校でした。今でも山田方谷の手植の松と伝えられる大きな松が高梁幼稚園に残っています。「中之町」という地名は、全国いたるところの町に見られる親しみやすい地名の一つであります。
 高梁の「中之町」は近世松山城下町時代の家中屋敷町の名を、そのままとどめた地名なのです。池田氏の時代になって城下の家中屋敷町が外堀に見立てられていた紺屋谷川を越えて南に広がった時代に付けられたと思われ、その頃に「家中屋敷町の中央に位置している町」を表しているのです。このように「地理的中央」の意や「政治・経済の中心」という意に用いられることが多く、位置を示す地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)