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地名をあるく 4.川上

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新
 「川上町」は地形の特色から二つに分けることが出来ます。
 一つは、領家川や支流の谷間沿いにある、浸食された峡あいな河成段丘状の低地で、多短谷の地形を示す地域なのです。二つには、吉備高原上の小起伏面の地域であります。特に小起伏の高原上に突出している弥高山(六五三・六m)や、北東にある須志山(五二一・七m)などはいずれも玄武岩の残丘です。弥高山を中心とした高山市付近には海棲化石の多い中新世層が見られたり、最も小起伏面が発達する「川上面」といわれる高原には高瀬層(山砂利層)の分布が見られたり、そして上大竹神野付近の石灰岩台地や大賀デッケン(大賀の押被)など地質や地形学上注目されている地域なのです。
 「川上」という地名は「和名抄」には見られませんが、下道郡の中に「弟翳」(和訓に「勢」)郷が書かれています。その後鎌倉中・末期の「拾芥抄」(尊経閣文庫版)に、備中九郡の一つとして「河上」の地名が初めて出てきます。
 「川上郡」はこの頃下道郡の北部地域四郷が分かれて成立したもの(「大日本地名辞書」吉田東伍)といわれています。中世室町時代中期以降になると「手荘」が山城国相国寺領の荘園として挙げられています。応永元年(一三九四)のものを写したといわれる「吉備津宮惣解文」の中に河上郡六郷の一つとして「手郷」や「穴戸郷」の地名が見えて(「岡山県古文書集」)、「手荘」(郷)は、元川上町の領家川下流一帯に比定されています。
 今に残る「地頭」・「領家」の地名は、川上町の中世(鎌倉―南北朝期)の荘園時代を知る上で重要なのですが、土地を地頭方と領家方(領主方)に分割した下地中分の名残りなのでしょう。七地地区の南の端、地頭の町を見下ろす場所に、戦国時代に松山城の支城だった国吉城跡(四一五・五m)があります。備中兵乱で政親一族が毛利によって滅ぼされた砦で激戦の様子が「備中平乱記」に書かれています。西の高山市は高原上にあって、物質の中継地として、また、穴門(戸)山神社の門前町として町が出来定期市(三斉市)が立ったり、牛市も開かれ大変にぎわったところです。
 「川上町」は「天保郷帳」(一八三四)に、一〇か村が書かれ、明治一九年(一八八六)では大竹村が上大竹と下大竹に分かれて一一か村になり昭和二八年の町村合併では手荘町、高山村、大賀村の三町村となって一九八八年に川上町が成立し、当時の村名が大字として残っているのです。
 「川上」という地名は数多く見られ「川上郡」の「川上」は文字通り、「川の上流域」を示すものですが、『川(河)の付く地名は、古くから井戸や堀、池などを表すことが多く、日本人にとっては「水のある所」が「かわ」や「い」(井)だった』(「地名用語語源辞典」楠原佑介他編)のです。「川上町」の「川上」は、合併時に命名されたのですが、「川上郡の代表的地域」即ち川上
郡にあやかる意味を含めて「川上に位置する」という意味から付けられた地名なのです。このように地名には地域の人々の願いが込められているのです。
(文・松前俊洋さん)