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備中松山城の沿革

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年3月17日更新

備中松山城のはじまり

 備中松山城は、延応2年(1240)に秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)が臥牛山に築城したのが始まりと考えられています。この秋庭三郎重信は、相模国の三浦氏一族と伝えられていますが、その出自についてはほとんど知られていません。承久の乱(1221)の功績によって有漢郷(現高梁市有漢町)の新補地頭として任じられ、台が鼻城を築き、約18年間居留しました。延応2年、備中一円への進出を謀り、陰陽道の要衝にあり天然の要害ともいえる臥牛山の大松山に築城したことが伝えられています。

 その後、元弘年中(1331~34)に、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康(たかはしくろうざえもんむねやす)が大松山に入城しますが、この頃に小松山まで縄張りを拡張し、小松山には弟の大五郎を居城させたようです。これが史料にみえる小松山(城)の初見で、以後城郭の縄張りは時代とともに変遷しますが、これ以降小松山にはなんらかの施設が設けられています。

 高橋氏はその後窪屋郡流山城(現倉敷市)に転じ、天正10年(1355)には高越後守師秀(こうのえちごのかみもろひで)が備中守護として入城しますが、同17年、秋庭三郎重盛(しげもり)によって備中松山城を追われ、備前徳倉城(現岡山市北区御津)へ退きました。以後、備中松山城には秋庭氏が6代にわたって在城し、守護代を務めています。

 その後、備中松山城主は上野氏・庄氏と代わり、永禄4年(1561)には安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現高梁市成羽町)城主の三村家親(みむらいえちか)が備中松山城を攻め、尼子氏の加番吉田左京亮(よしださきょうのすけ)を討ち破り、備中松山城主となりました。家親は毛利氏と結んで美作・備前に進出しましたが、同9年に久米郡籾村興禅寺(現久米郡久米南町)で宇喜多直家の指示によって銃によって暗殺され、さらに翌10年家親の子元親(もとちか)も明禅寺(現岡山市)合戦で直家に大敗を喫しました。これによって三村氏の勢力が一時後退し、備中には直家と結んだ尼子勝久の勢力が進出しました、元親は成羽へ退き、庄高資(しょうたかすけ)が再び備中松山城主となりますが、元亀2年(1571)には毛利氏の加勢を得た元親が再び備中松山城を回復しています。

備中兵乱

 元亀3年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で、毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村家親は東の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻しました。その後、天正2年(1574)冬から翌3年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で備中松山城をはじめとする三村方の備中諸城をめぐって激戦が展開され、いわゆる「備中兵乱(中国兵乱)」がおこりました。これによって三村氏は滅びましたが、この頃には備中松山城は本城が小松山に移っており、臥牛山一体には大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸(砦21丸)が設けられ、全山が一大要塞となっていたようです。また城主の居館である御根小屋も後世の場所(臥牛山南西麓)に設けられていたようですが、備中松山城とともにその縄張りや建物については明らかではありません。

 三村氏滅亡後の備中松山城は毛利氏の番城となり、家臣天野氏・桂氏などが在城しました。

 天正7年(1579)、今度は宇喜多直家が織田信長と結び毛利氏に反旗を翻しました。備前・備中・美作の各地で毛利・宇喜多両軍の激戦が展開されますが、毛利輝元はその前線基地としての備中松山城を選び、輝元自ら指揮して備中松山城の普請にとりかかっていたことがうかがえ、現存する小松山城の前身がこのころまでには出来上がっていたものと考えられています。

 天正10年(1582)、備中高松城の水攻めを契機に織田と毛利の攻防は終了し、高梁川以西を毛利氏が、以東を織田氏が領有することとなりますが、そのなかにあって備中松山城だけは高梁川以東に位置するにもかかわらず毛利氏が固執し毛利氏の所領となりました。

江戸時代の改修

 関ヶ原合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、没収した毛利領のなかで最も東にある備中松山城に西国目付けとして備中国奉行を置き、城を預けました。ここに赴任したのが小堀正次・政一(遠州)父子で、備中松山城が荒廃していたため、当初は頼久寺において政務を執っていましたが、慶長11年(1606)頃から政一によって御根小屋と備中松山城の修築が進められています。この修築の時に描かれた2枚の備中松山城絵図のうちの1枚によると、城の縄張りや石垣はごく一部を除いて後世とほとんど変わりませんが、石垣は数か所で崩落しており土塀もいたるところで崩壊している状況です。建物としては瓦葺の大手門・搦手門・櫓3棟のほか二の丸に草葺きとみられる建物1棟があるだけです。この絵図に描かれた備中松山城は、その荒廃の状態からみますと、三村氏滅亡後に毛利氏が備中支配の拠点として大改築を進めたが、天正10年の和睦によって工事半ばで中断し、放棄されたままとなっていたことを物語るのではないかと考えられます。もう1枚の絵図は、後世の備中松山城とほとんど変わりがなく、修築を進めるための計画図(完成想定図)とみられています。

 その後、政一(遠州)は所替えとなり、備中松山城には因幡国鳥取から池田長幸(6万5千石)が入城しますが、その子長常に嗣子がなく廃絶となり、寛永19年(1642)に水谷勝隆(みずのやかつたか)が入城します。

 勝隆は入部後まもなく城下町の建設に力を入れますが、正保年中(1644~48)に幕府に差し出したとみられる備中松山城絵図によると、後世とほとんど変わっていません。

 ただ、この絵図には大手門・二の丸櫓門・搦手門などが描かれておらず、さらには櫓はいずれも単層・瓦葺で二重櫓もなく、二・九・十の櫓も描かれていません。池田氏時代には城の修・改築に関する記録が見当たらないことをあわせて考えますと、小堀政一が計画した慶長の修築によって建物のうち天守や一部の櫓は完成していたものの、大手門・二の丸櫓門。搦手門などは改築ができないまま小堀が転任となったものと考えることができます。

 その後、天和元年(1681)から3年かけて水谷勝隆の子勝宗(かつむね)によって大改修が行われますが、この時現存する二重櫓やその他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門、三の丸の上番所、足軽番所などが建てられて現在の備中松山城の全容が完成したと思われます。

改修以後

 元禄6年(1693)に水谷氏が断絶すると、播州赤穂藩主浅野内匠頭が城の請取にあたり、城代家老大石内蔵助はその後1年近く在番として備中松山城にとどまっています。その後、安藤重博(6万5千石)・信友、次いで正徳元年(1711)に伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄(かつずみ)(5万石)が入城します。

 板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝●(●は日へんに夌)・勝織・勝静・勝弼と7代続き、廃藩置県を迎えました。

明治維新後

 廃藩置県後は、明治6年の廃城令により、備中松山城は荒れるにまかせていましたが、昭和3年に当時の高梁町によって二重櫓を修理、同14・15年に天守の解体修理、翌16年には三の平櫓東土塀の修理を行いました。その後、昭和35年に二重櫓の解体修理と天守の部分修理が国庫補助事業によって完了しました。その後も補助事業や高梁市単独事業によって天守や二重櫓、三の平櫓東土塀の修理が重ねられ、平成9年には本丸跡の整備として五の平櫓、六の平櫓、本丸南御門、本丸東御門、腕木御門、路地門、土塀が復元されています。

 なお、昭和16年には天守と二重櫓、三の平櫓東土塀が重要文化財に、同31年に史跡に指定されています。